アスリートストーリー

vol.5 可能性を信じて……限界への挑戦 ~車いすテニス(クアード)・古賀貴裕~

テニスに魅せられ、大きな夢を追って人生の全てをかけている男がいる。国枝慎吾、斎田悟司など世界トップの車いすテニスプレーヤーを数多く輩出している公益財団法人吉田記念テニス研修センター(TTC)に所属する古賀貴裕だ。3年前、彼は務めている会社の正社員という地位を捨てた。練習時間や海外遠征の数を増やし、世界と互角に渡り合うことのできる技術力・精神力を磨くためだ。
「テニスプレーヤーとして、どこまでやれるのか」
安定した生活に別れを告げ、自らの限界に挑む一人のアスリートを追った。

「覚悟を決めなければ……」
2007年6月、古賀はスウェーデン・ストックホルムにいた。車いすテニスの国別対抗戦「ワールドチームカップ」に出場するためだ。前年に初の海外遠征に行き、2大会に出場しただけの古賀にとって、ワールドチームカップは3度目の海外での大会。しかも各国の代表が一堂に会したその舞台は刺激的だった。世界の精鋭たちのプレーを目の当たりにし、古賀は自らの甘さを痛感していた。

世界で感じた“覚悟”

古賀が車いすテニスに出合ったのは32歳の時だ。その2年前に海での事故で頚椎を損傷し、地元福岡でリハビリ生活を送っていた。その一環として勧められたのが車いすテニスだった。
「弟が大学までテニス部だったので、遊び程度でならやったことがあったんです。でも、正直言って、僕はテニスという競技をなめていました。というのも、大学ではラグビーのサークルに入っていたのですが、夏に合宿をすると、隣のテニスコートからキャーキャーと、楽しそうな声が聞こえてくるんですよ。こっちはもう階段も昇り降りできないくらい足がパンパンに張っているというのに……。いわゆる嫉妬心でしょうね(笑)。ところがケガをして、病院の施設で見た車いすテニスは何ともかっこよかった。それに、車いすの競技は他にもたくさんありますけど、なかでも個人競技のテニスは自立しているように見えたんです。実際にやってみると、これがまた面白かった。どんどんハマっていきましたね」

聞けば、車いすテニスは一般のテニスとほぼ同様に、世界ツアーが行なわれているという。ランキング制度も確立されており、世界の舞台への門戸が開かれていることを知った。すると、古賀にある感情が芽生えた。
「世界で自分を試してみたい」
古賀は頚椎損傷で胸から下を動かすことができず、残された機能は極めて少ない。ならば、果たしてどれほどの機能が自分には残されているのか。そして自分は今、どこまで自らを追い込むことができるのか。それともすぐに投げ出してしまうのか……。身体的にも精神的にも、自分自身の限界に挑んでみたいという気持ちが沸々とわき始めていた。

それから1年後、古賀は千葉へと転居し、地元のテニスサークルに通い始めた。そこにはシドニーパラリンピック代表で、現在、古賀のプライベートコーチを務めている山倉昭男もいた。
「レベルアップしたいのなら、TTCに行けばいいんじゃないの?」
ある日、古賀は山倉にそうアドバイスされた。「強くなりたい」と思っていた古賀は、車いすテニスのトッププレーヤーを育成しているTTCに、事あるごとに顔をのぞかせていた。だが、何の実績もない自分には踏み入れることのできない敷居の高さを感じており、飛び込む勇気をもてずにいた。そんな古賀の背中を押してくれたのが、山倉だった。
「僕みたいなのが、行ってもいいんですかねぇ?」
「そんなの、やる気次第だよ! 強くなりたいんなら、やる気を見せろよ」
2004年3月、意を決した古賀はTTCの門を叩いた。

はじめの1年はグループレッスンを受けていた古賀だが、メキメキと力をつけ、国内ランキングの上位へと昇っていった。翌年には世界を視野に入れたプレーヤーズプログラムを受ける資格が与えられ、専任コーチをつけてのプライベートレッスンがスタートした。それから2年後、古賀は日本代表としてワールドチームカップに出場した。それが、彼の人生を大きく変える転機となった。

当時、古賀は正社員として企業で働く普通のサラリーマンだった。もちろん、テニスよりも仕事が優先。練習や大会は仕事に差し支えないよう、空いた時間を使って行なっていた。もちろん、当時はそれが当然だと思っていた。だが、チームカップで海外選手の本気度をまざまざと見せつけられた古賀は、それまで仕事を言い訳に甘えている自分に気づかされた。
「世界に挑戦したいと言いながら、テニスよりも仕事を優先にしてきた。それで通じるほど、世界は甘くはありません。競技者として当然の決心がなかったんです。だから、よし、覚悟を決めようと思いました」

帰国後、古賀は会社に競技を優先したいという意向を伝えた。何の実績もない自分の勝手が通るはずはないと、辞めなければならなくなることも想定してのことだった。会社は古賀の留任を望んだ。仕事よりもテニスを優先するという彼の意思を尊重し、契約社員として雇用。就業時間や遠征スケジュールなど、でき得る限りの体制を整えてくれた。こうして08年春、古賀は正社員から契約社員となった。と同時に、真の意味での競技生活がスタートしたのである。

失いかけていた挑戦心

現在、古賀はロンドンパラリンピックを目指している。世界ランキングは日本人選手の中では3番目の24位だ(11年12月末現在)。ロンドンへの出場は、12年5月のランキングによって決まる。そのため、それまでに少しでも多くの大会でポイントを稼ぎ、ランキングを上げることが不可欠だ。古賀は11シーズンは自己最多の20大会に出場した。この数字はクアードの選手にとっては、類を見ない多さだという。それだけ少しでもポイントを獲得し、ロンドンの切符を掴み取りたいという思いが強いということだ。だが、それが古賀のベクトルを狂わせていた。

今年2月、古賀はシドニーオープンに出場した。男子オープンクラスには国枝慎吾もエントリーしており、2人は大会期間中の約1週間、同部屋で過ごした。ドローが発表され、古賀は初戦で世界ランキング11位の選手と対戦することとなった。その日の夕食時、初戦で強豪とぶつかった自分の不運に、古賀はため息が止まらなかった。
「はぁ……オレってついてないな」
すると、向かいに座っていた国枝の眉がピクッと動いた。そして再び古賀がため息をつくと、国枝は「古賀さん、ちょっといいですか?」と言って、話し始めた。
「古賀さんが、必死に朝早くから練習しているのは、強い相手に勝つためではないんですか? そのチャンスが与えられるタフドローは、僕はラッキードローだと思いますよ」

その言葉に古賀はハッとした。大事なことを忘れかけていた自分に気づいたのだ。
「自分がなぜテニスを始めたのか。それは自分自身を試したかったからなんですよね。残された機能を使って、世界でどこまで通用するのか。だから、強い相手と対戦するのが楽しみで仕方なかったはずなのに……。それがポイントを意識するあまり、いつの間にかそういう気持ちを失っていたんです。慎吾に言われて、そのことに気づきました」
原点回帰――。今、古賀は世界に挑戦する高揚感にあふれている。

1月からは再び世界ツアーが始まる。ロンドンパラリンピックまで約8カ月。5月まで激しいポイントレースが繰り広げられる中、古賀に焦りがないと言えば、嘘になるだろう。だが、今の彼にとって最も重要なのは“チャレンジャー”でいることだ。
「今が一番充実しているかもしれません」
そう言ってほほ笑む古賀の表情には、自らの可能性の広がりを感じている様子がうかがえた。43歳、古賀貴裕。限界への挑戦はこれからだ。

(文・斎藤寿子)

協力 公益財団法人吉田記念テニス研修センター