二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.11.04
第1回 最大の魅力は"バリアフリー"
~世界を目指せ! シッティングバレーボール~(1/4)
障害者と健常者の壁をなくし、共にプレーする喜びを味わえる。それが「シッティングバレーボール」の魅力である。日本シッティングバレーボール協会会長の真野嘉久氏はこの競技に出合ってすぐに夢中になったという。1998年から日本代表監督を務め、パラリンピックでは男子監督として2000年シドニー、04年アテネと2大会連続で指揮を執り、08年北京には女子を初出場に導いた。シッティングバレーボールチーム「東京プラネッツ」を経て、現在は「台東スマイル」に所属し、同競技の普及・選手育成に努める傍ら、自ら選手としてもプレーを楽しんでいる。そこで、今回はシッティングバレーボールのパイオニアとして精力的に活動している真野氏をインタビュー。そこには決して恵まれない厳しい現状を前に悪戦苦闘しながらも、世界を目指すリーダーの姿があった。
二宮: シッティングバレーボールはオランダが発祥のスポーツですが、日本ではいつ、どのようにして始まったのでしょうか?
真野: 日本に導入されたのは1992年。現在のアジアパラリンピックの前身であるフェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)を2年後に控えていた時期で、日本パラリンピック委員会事務局長の中森邦男さんが北区王子にある障害者スポーツセンターの職員に「シッティングバレーというものがあるから、やってみないか?」という話をされたのがきっかけとなったようです。そこで、陸上や水泳選手の中から身長の高い選手を集めてチームがつくられ、フェスピックに出場したのですが、大会終了後には解散してしまいました。
二宮: その後、どういうかたちで広がっていったのですか?
真野: フェスピックに出場したメンバーの中で、シッティングバレーの面白さに魅了された選手が少しずつ広げていき、97年に第1回日本シッティングバレーボール選手権大会が埼玉県で開催されました。翌年4月には男子代表がイランで行なわれた世界選手権に出場し、00年のシドニーパラリンピックを目指し始めました。
健常者にも人気拡大
二宮: 真野さん自身はどのようにしてシッティングバレーに出合ったのですか?
真野: サラリーマン時代、私はOA機器の営業マンをやっていたのですが、お付き合いのあった取引先が無料配信のテレビ番組を制作することになったんです。その番組を通じて知り合った方のご家族にシッティングバレーの選手がいまして、練習を観に行ったのが始まりでした。実は私自身、中学からバレーボールをやっていたんです。それでちょっと仲間に入れてもらって一緒にやったところ、「これは面白いスポーツだ」ということで、すぐに夢中になってしまいました。これがきっかけとなって、98年の世界選手権にはマネジャーとして同行し、その後監督になったというわけです。
二宮: 現在、国内のシッティングバレー人口はどのくらいですか?
真野: 日本シッティングバレーボール協会に登録している選手は約250人ですが、大学や高校でやっているとう話も聞いていますので、実際には男女あわせて1000人くらいはいると思います。しかも、そのうち障害者は30%くらいで、あとは健常者なんです。
二宮: それが他の競技とは違ったシッティングバレーの魅力でもありますよね。
真野: はい、そうなんです。例えば、車椅子バスケットボールも健常者と一緒になってやったり、健常者だけのチームがあったりします。しかし、バスケットという競技の前に、どうしても車椅子を操作する高い技術が必要になってくるわけです。そうすると、車椅子が自分の足となっている障害者の選手と、操作に慣れていない健常者との間では、レベルの差が出てくる。これでは一緒にプレーすることはなかなか難しいと思うんです。
二宮: シッティングバレーは、健常者でも座ってしまえば、条件は同じになると。
真野: はい。ジャンプしたり走ったりすることはできませんから、健常者と障害者の間に差は生じにくいんです。
二宮: 障害者も健常者も一緒になって楽しむことができるというのは、新しいスポーツのあり方ですよね。
真野: はい。私がシッティングバレーに夢中になったのも、それがあるからなんです。
(第2回につづく)
<真野嘉久(まの・よしひさ)プロフィール>
1965年、大阪府出身。東海大学体育学部社会体育学科卒業。中学から大学までバレーボール部に所属。97年にシッティングバレーと出合い、翌年から日本代表の監督として同競技の普及と選手育成に努めている。2000年シドニー大会、04年アテネ大会では日本男子監督を務め、08年北京大会では日本女子を初めてパラリンピック出場に導いた。日本シッティングバレーボール協会会長。
(構成・斎藤寿子)