二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2025.05.08
前編 オーディションへのこだわり
~人と人とを繋ぎ育てる夢~(前編)
2021年に開催された東京パラリンピックの開閉会式のステージアドバイザーを務めた栗栖良依氏は、その10年前の2011年にスローレーベルを立ち上げ、障がいのある人の社会参加に尽力してきた。その彼女の東京パラリンピックに懸けた思いと、今後の展望について訊いた。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長): 栗栖さんは4年前に開催した東京パラリンピック開閉会式のステージアドバイザーを務められました。具体的にはどのようなお仕事だったのでしょうか?
栗栖良依: 私の場合、企画の段階から関わっていました。キャスティングのためのオーディションの設計、実際に制作段階に入れば、リハーサル環境のアクセシビリティ、開閉会式本番時には、障がいの有無に関わらず、誰にとってもわかりやすいユニバーサルな音声と字幕のコメンタリーガイドのディレクションなど、アクセシビリティやDEIの観点から式典を総合的に監修しました。東京オリンピックも開閉会式D&I チーフプロデューサーを務めましたし、おそらく業務内容は誰よりも広範囲にまたがっていたと自負しています。私が立ち上げたスローレーベルのメンバーを中心に、53名のスペシャリストが、各セクションを担当するクリエイターや技術スタッフに伴走しながらアクセシビリティを支えたり、障害のあるパフォーマーのケアを担っていました。
二宮清純: 元々、開閉会式の演出に興味があったのでしょうか?
栗栖: それが私の夢でした。はじめは16歳の時、1994年リレハンメル冬季オリンピックの開会式を見て、"自分もやってみたい"と思ったんです。リレハンメルオリンピックの開会式は子どもからお年寄りまで多様な人が出てきました。民族衣装を着て、ファンタジックな雪の世界を演出していました。それまで私は、中学や高校の同級生たちと舞台作品をつくるなど、エンターテインメントの世界に興味がありました。ただ私はどちらかといえば、プロの役者やダンサーを演出することより、普段スポットライトに当たらない人たちの"ハレの日"をつくることの方が興味があったんです。
伊藤: それでオリンピックの開会式を演出したい、と?
栗栖: はい。私は平和活動をすることがもうひとつの夢でした。オリンピックと言えば、平和の祭典ですから、"まさにこれだ!"とピンときたんです。
二宮: 幼少期にオリンピックを見て、選手を目指すケースはあっても、演出側に興味を持つのは珍しいパターンですね。
栗栖: それはよく言われます。「それぐらいの年齢の頃に、あまり開会式の演出を手掛ける人がいるという発想すら持たない」とも。だけど、私は中高生の時から、わりとそれに近いことをやっていたので、イメージがしやすかったんです。それでリレハンメルオリンピックの開会式を見た時から、もうオリンピック開会式の演出が私の夢になりました。そのために必要なキャリアを積むため、美術大学に進学し、アートの世界を勉強してきました。その後、舞台製作やイベント運営に携わってきましたが2010年、悪性繊維性組織球腫を発症してしまったんです。この病気は5年生存率がすごく低い。1年、2年、3年と生きるごとに生存率は比例していきますが、当時はまだ東京オリンピック開催も決まっていない頃です。再発の可能性があり、来年、自分が生きている保証もないのに、いつ来るかわからない夢を追いかけられなかった。"とにかく生きなきゃ"と、その時は必死で、一度は夢を諦めました。
二宮: 栗栖さんは病気になる前の方が、生きることにストレスを感じていたと、どこかでおっしゃっていました。
栗栖: そうなんです。昔から私はユニークな性格で、人とは違う考え方を持っていました。ただ病気になる前は、それを隠そうとしていた。できるだけ目立たないよう、みんなと同じようにしなければいけないという風潮の社会に窮屈さを感じていました。ところが、病気になり、みんなと同じことが同じようにできなくなった。その時に自分が人と違うということを、スッと受け入れることができ、心が自由になった気がしたんです。
【ポリシーに反した6年間】
伊藤: そこから夢を再び追いかけるようになったのはいつ頃ですか?
栗栖: 2012年に開催されたロンドンオリンピック・パラリンピックです。私が障がい者になって初めて迎えた大会でした。今まではオリンピックの方ばかりに注目していましたが、この時、初めてパラリンピックを意識して見ました。パラの開会式のテレビ中継を見ながら、"オリンピックよりも、パラリンピックの開会式を演出したい"という思いが芽生えました。そこで自分の夢を上書きしたんです。ロンドンパラリンピックの1年後、オリンピック・パラリンピックの東京開催が決まり、"じゃあ、東京大会を目指そう"と決意しました。
伊藤: その夢が栗栖さんにとって支えになった部分もありましたか?
栗栖: そうですね。夢中で生きてきたので、振り返ると、時が経つのは早かったですね。ただ無理をするとまた病院に戻るかもしれないという不安から、どこかでブレーキをかけている自分がいました。それは今も同じ。だから、なるべく自分にストレスがかからないよう、体を壊すような無理なことは避けるようにしています。
二宮: 東京オリンピック・パラリンピックはコロナ禍による1年の大会延期のみならず、大会直前まで、様々なゴタゴタが続きました。オリパラの準備段階から、多岐に渡って関わってこられた栗栖さんにとっても、相当なストレスがかかった歳月だったのでは?
栗栖: 正直に言うと、その東京オリンピック・パラリンピック開会式までの準備に費やした6年間は、自分に負荷をかけ過ぎないというポリシーに反した6年間でした。もう何度もやめようと思いましたし、やめてもいいと自分に言い聞かせていました。だた最終的には、自分の命と天秤にかけるような場面まで迫られた場合は、迷わず降りようと考えていました。だから"いつ辞めてもいい"と腹をくくれていた強さがあったんだと思います。
二宮: 逆に無我夢中で走っている時の方が忘れられるんでしょうか?
栗栖: 確かに必死でした。オリンピアンやパラリンピアンは4年間というひと区切りで、心身を調整し、本大会を迎えると思うのですが、私もパラリンピック開会式のリハーサルまで耐え得る体作りをして臨みました。
二宮: パラリンピックの開会式で、栗栖さんが一番重要視したのは?
栗栖: オリンピック・パラリンピック閉幕まで、ここでは話しきれないぐらいいろいろなことがありました。開閉会式演出チームが解散した後も私は、オリンピックはD&I チーフプロデューサー、パラリンピックは開閉会式のステージアドバイザーというかたちで残りました。かといって私の意見やアイディアを全部通せるわけではありませんから、取捨選択し、ここだけは譲れないというところは戦いました。その中で私がこだわったのは、パラリンピックの開会式でオーディションを実施することです。こういった大きなイベントのキャスティングは密室で行うと思うのですが、私はオーディションというかたちを取りました。
伊藤: それはなぜでしょう?
栗栖: 日本全国にいる、無名の存在だとしても社会を変えられるような可能性を秘めた人がいるはずだと思ったからです。オーディションを実施した場合、お金も時間もかかりますし、大変だということは明らかだった。それでもやる意味があり、オーディションをしないといいキャストが揃わないと、各所を説得し続けました。その結果、オーディションには5000人を超える応募が集まり、"片翼の小さな飛行機"を演じた和合由依ちゃんのような次世代のスターを発掘できた。そこは、こだわってきて良かったと思っています。
(後編につづく)
<栗栖良依(くりす・よしえ)プロフィール>
認定NPO法人スローレーベル芸術監督、ミラクル株式会社代表取締役。1977年、東京都出身。2000年、東京造形大学造形学部美術学科卒業。2006年、ドムスアカデミー(イタリア・ミラノ)ビジネスデザイン修士号取得。2010年、骨軟部腫瘍の一種である悪性繊維性組織球腫を発症し、右下肢機能を全廃する。3度の手術と8回の抗がん剤治療を経験した後、社会復帰。2011年、国内外で活躍するアーティストと障がい者を繋げた市民参加型ものづくり「SLOW LABEL」(現・認定NPO法人スローレーベル)を立ち上げた。障がい者の創作環境におけるアクセシビリティ改善の仕組みを開発し、「アクセスコーディネーター」や「アカンパニスト」と称したスペシャリストを育成する。その活動が評価され、2016年リオパラリンピック閉会式・旗引継式のステージアドバイザー、2021年東京オリンピック開閉会式D&I チーフプロデューサー、東京パラリンピック開閉会式のステージアドバイザーを務めた。
スローレーベル
(構成・杉浦泰介)