二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.03.12
第2回「"野獣と羊"から金メダル候補へ」
~パラリンピックへの熱き思い~(2/4)
二宮: 初めてパラリンピックに出場したのが17歳の時の長野大会。8位という成績を収めましたが、世界の舞台はどんなふうに感じられましたか?
新田: まだまだ自分は努力が足りないなと思い知らされました。地元開催で8位ですから、海外の大会ではもっと順位が下がってしまうことは明らかでした。どうやっても海外の選手には勝てないなと。
二宮: 一番の違いは何だと思いましたか?
新田: 4年に一度しかないパラリンピックへの気持ちの入れ方が、全く違っていました。僕は「ベストを尽くせばいいかな」というくらいにしか思っていませんでした。ところが、彼らは皆「メダルを獲らなければ祖国に帰ることはできない」とでも言いたそうに、野獣のような目を向けてくるんです。日本人選手はその目に威圧されてしまって、まるで羊のようでした。
二宮: それまでは経験したことのない世界だったんですね。
新田: 彼らは国の威信をかけて戦っていて、「自分たちとはこれほどまでに違うんだ」とある種のカルチャーショックを受けました。
勝敗を分ける左右のバランス性
二宮: 監督はいかがでしたか?
荒井: 長野でパラリンピックを開催するにあたって、その2年前から選手を集めて育成し始めました。当時、僕としては各選手のいい部分を見つけて、そこをパラリンピックに出場できるくらいのレベルにまで引き上げようと考えていました。というのも、当時は今以上に選手の置かれた環境は厳しく、海外の国際大会に出場する機会もほとんどありませんでした。そんな中で出場したものですから、まさに野獣の群れの中に羊をポンと入れてしまった状態で、みんなビビってしまった。もし、もう少し海外でのトレーニングや大会に出場していれば、「同じ人間じゃないか」と強い気持ちで挑めたはずなんです。そう思うと、すごく悔しかったですね。
二宮: その長野での苦い経験をいかし、4年間、努力を重ねられてソルトレークシティーでは銅メダルを獲りました。1位の選手のドーピング使用による繰り上げでのメダルとはいえ、世界のトップクラスに入ったことは間違いありません。
荒井: 17歳で長野の代表に選ばれた時の新田は極端に左腕が細くて、広背筋もなかった。体の左右のバランスがとても悪かったんです。まずは左腕を動かすことで筋力をつけ、可動域も広げていきました。今では左腕用に彼が考えたロープをつけて、懸垂もできるくらいの筋力をつけています。
クロスカントリースキーは、何センチ先までスキー板を滑らせることができるかによって、勝敗が決まる競技です。細い板の上に全体重をしっかりと乗せないといけません。そのためには左右にバランスよく重心を乗せて、無駄なく滑走させることが大事なんです。コースは坂道もありますし、カーブもたくさんあります。それを腰を入れながら、足首を柔らかく使って行くんです。無駄のない走りは、とにかく筋肉に覚えさせるしかない。長野大会の後、そのトレーニングを夏もずっとやらせていた記憶があります。
二宮: 今は、スーツの上からでも非常に左右バランスよく鍛えられているのがわかります。
荒井: 日立システムアンドサービスのスキー部に彼を迎え入れてからはより、筋力トレーニングに取り組むことができました。おかげで入社当初より胸囲は3センチもあつくなったんです。3センチというと、あまり驚かれないかもしれませんが、左前腕がない状態で3センチの筋肉をつけるというのは並大抵のことではありません。まさに彼の努力の賜物です。
4年前のリベンジ
二宮: ソルトレークシティー大会の直後、2003年の世界選手権では金メダルに輝きました。世界のトップに立ったという実感はありましたか?
新田: ソルトレークシティーでは長野と同様に、足の障害、腕の障害などとクラスが細分化されていたんです。メダルの価値を高めるために、障害が違っても同じ土俵でやりましょう、という理由で、03年からクラス分けのカテゴリーが座位(シッティング)、立位(スタンディング)、視覚障害(ビジュアリーインペアード)の3つに統合されました。まさか、ルール変更されて最初の世界選手権で自分が金メダルを獲れるとは思ってもいませんでした。世界のトップに立ったというより、なんだか神がかり的なものを感じていました。ただ、間違いなく世界の5本の指には入れる力はついたのかなとは思いましたね。
二宮: 05年には世界選手権で銀メダルを獲得し、年間総合ランキングでは3位と、輝かしい実績を残しました。しかし、満を持して臨んだトリノ大会では残念ながら5位と、表彰台には届きませんでした。
新田: 前年のシーズン(05年)は、クラシカルでは悪くても3位以内に常に入っていました。ですから、トリノでは10キロのクラシカルでソルトレークの屈辱を晴らすためにも、本気で金メダルを目指していたんです。ところが、スタートからわずか1キロ地点で転倒してしまいました。その際、ストックが脇腹に入って......。痛みを我慢しながら走り続けましたが、結局13位に終わりました。20キロは5位に入りましたが、やはりいいパフォーマンスは出せなかったという思いが残りました。
二宮: 4年に一度のパラリンピックでは何が起きるかわかりません。もちろんコースを下見していたと思いますが、それでも予期せぬことが起こるものです。
新田: コースの状態というのは、天候や気温はもちろん、前を滑った選手によっても変わってきます。そのことをしっかりと頭に入れて滑らなければいけなかったのですが、やはり4年に1度ということで、精神的なバランスがしっかりと保つことができていなかったのだと思います。今ではそんなふうに冷静に考えることができますが、転倒した瞬間は「あぁ、この4年間の苦労が無駄に終わってしまった」という思いでいっぱいでした。
二宮: 今回のバンクーバー大会はそのリベンジでもあるわけですね。
新田: そうですね。4年に1度という重みを感じています。パラリンピックでは本当に何が起きるかわからない。でも、だからこそ再び挑戦したくなる舞台なのだと思います。
(第3回に続く)
<新田 佳浩(にった よしひろ)プロフィール>
1980年6月8日、岡山県出身。3歳時に事故で左前腕を切断。4歳からスキーを始め、小学3年時にクロスカントリーに出合う。高2で長野パラリンピックに出場。筑波大学4年時に出場したソルトレークシティーパラリンピックではクラシカル5キロで銅メダルを獲得した。2003年、アディダス・ジャパンに入社。同年の世界選手権、クラシカル10キロで優勝。2006年日立システムアンドサービスに入社。2010年バンクーバーパラリンピックでは日本選手団主将に抜擢された。
<荒井 秀樹(あらい ひでき)プロフィール>
1955年、北海道出身。日本パラリンピックノルディックスキーチーム監督兼日立システムアンドサービススキー部監督。1998年長野パラリンピック開催を機に障害者ノルディックスキー選手の育成・強化に努めている。