二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.03.19
第3回「探し当てたメダリストの原石」
~パラリンピックへの熱き思い~(3/4)
二宮: ケガをされたのは何歳の時ですか?
新田: 3歳の時に祖父の運転しているコンバインで左腕が巻き込まれてしまったんです。2度手術をしたのですが、残念ながら神経はつながりませんでした。そのうちに壊死が始まってしまったので、切断せざるを得なかったんです。
二宮: 3歳の新田さんは現実をどんなふうに受け止めたのですか?
新田: ケガをした時、周りは大変だったと思いますが、僕自身は気づいたらベッドの上に寝ていたんです。左腕に包帯がグルグル巻かれていたのを覚えています。僕はまだ3歳でしたから、いつものように祖父や祖母、両親が何とかしてくれるだろうと。それほど深くは考えていませんでした。そのうち勝手に生えてくるんじゃないかって思っていたくらいです。
二宮: スキーを始めたきっかけは?
新田: 僕の生まれ育った岡山県県北にある西粟倉村は島根県と兵庫県の県境にあって、冬はかなり雪が積もるんです。ですから、スキーは身近なスポーツでしたので、自然と僕もやるようになったんです。もう4歳の時には父親がアルペンの板を買って来てくれて、スキー場に行くようになっていました。ただ、最初は無理やり連れて行かれていたという感じでしたね(笑)。スキー板が重くて嫌だなという印象の方が強かったんです。でも、徐々に滑れるようになってくると、夢中になりましたね。
二宮: ただ片手でバランスをとらなければいけないわけですから、慣れるのに時間がかかったのでは?
新田: そうですね。スキーだけでなく、日常生活においてもバランスを取るのは苦労しました。たとえば、ケガをする前は馬のように四つんばいになった父親の上に乗って遊んでいたんです。でも、ケガをした直後、同じように遊んでいたら、バランスを崩して柱に頭をぶつけたことがありました。7針くらい縫った覚えがあります。また、トイレに行くときも、真っすぐに歩けなくて、手すりにつかまりながら行っていたんです。
ストック1本の少年
二宮: 競技としては、いつ頃から大会に出場されていたのですか?
新田: 小学3年から一般の大会に出ていました。もともと走るのは速かったですし、体も大きいほうでしたので、小学校の時は脚力で何とかなっていました。それこそ県内であれば、優勝もしていたんです。
二宮: 荒井秀樹監督との出会いは?
新田: 中学2年の時、岡山県代表として全国のスキー大会に出場したのですが、それが荒井監督の耳に入ったようですね。実は僕はその大会でスキーをやめようと思っていました。3年の時は受験勉強に専念していたんです。ところが、無事に受験を終えたホッとしていたところに、荒井監督から学校に電話が入りまして「長野のパラリンピックに出てみないか」という話をいただいたのが最初でした。
二宮: 監督はどうやって新田選手の存在を知ったのですか?
荒井: 1991年に98年のオリンピック開催地が長野に決定しまして、それに伴ってアジアでは初めてのパラリンピックも行なわれることになったわけです。しかし、当時国内にはパラリンピックに出場するような選手はいませんでした。そこで厚生省の方から長野大会に向けて選手の育成・強化といった依頼を受けたんです。それが開催の2年前でした。僕は区役所に勤めていたのですが、ボランティアというかたちでお手伝いをすることになったんです。最初は全国で約60名の方が候補としてあがってきたのですが、そこには新田君の名前はありませんでした。
当時は僕ら自身、強化といっても何をしたらいいのかわからず、とりあえず世界を見ようということで長野パラリンピック競技委員長の和田光三さんとスウェーデンで行なわれた世界選手権を見に行ったんです。そしたら、もうビックリするくらいのハイレベルな争いが繰り広げられていたわけです。和田さんも「荒井くん、2年後にはこの舞台に日本の選手を送り出すことができるのかねぇ」と心配していました。
そんな時、和田さんが岐阜県で開催された全国中学校スキー大会に競技委員長として行かれたんですね。そこで新田君を見たわけです。和田さんから「ストック一本で滑っていた中学生がいたんだよ」という話を聞いて、本当に驚きました。僕自身、全中のレベルはわかっていましたから。
二宮: ようやく世界の舞台で戦える素材を見つけたと?
荒井: ところが、和田さんもどこの中学校なのかわからないというんです。スタート係に聞いても「確かにストック一本で滑っていた子がいたけど、ゼッケンが何番かわからない」と。リザルトを見せてもらいましたが、そこにはもちろん「ストック1本」なんて書いてありませんから、全くわからなかった。
衝撃的な初対面
二宮: では、どうやって探し出したんですか?
荒井: 悩んだ末に、もしかしたら宿舎の人に聞いたらわかるんじゃないかと思いついたわけです。あとは地域を絞りました。僕が把握していた関東にいないことははっきりしていました。それから北海道や東北はレベルが高い。ここではストック1本で代表になるのはまず難しいだろうと。そこで、雪のない西の方に絞って、ワラをもつかむような思いで宿舎の人に聞きまわったんです。そしたら岡山県代表の宿舎のおばちゃんが「その子ならうちに泊まっていたよ」と。早速、岡山県のスキー連盟に問い合わせをして、新田君が西粟倉中学の2年生だということを突き止めました。
すぐに中学校に電話をして、「新田くんにパラリンピックの代表になってほしい」とお願いをしました。そして5月の連休には厚生省の方と一緒に新田君のお父さんに会いに行ったんです。僕自身は喜び勇んで行きましたし、自分の息子が日本代表候補に選ばれたわけですから、当然お父さんも両手をあげて喜んでくれるだろうと思っていたんです。ところが、「佳浩はパラリンピックには出さない」と断られたんです。「うちは障害者として育てていないので」と。もう、ショックでしたね。改めてパラリンピックの認知度の低さ、それからリハビリの延長というような誤解があることを感じました。
そこで、自分が世界選手権で見た衝撃、障害者スポーツは立派なスポーツなんだということをわかってもらおうと、ご両親はもちろん、中学校の校長先生やスキー部の先生にビデオを見てもらいました。そしたら最後にはお父さんも「やるからには佳浩にはとことんやらせますので」と言っていただきました。
二宮: まさに運命的な出会いですね。新田選手自身も、その時に本気でパラリンピックを目指そうと。
新田: そうですね。荒井監督から話をしていただいて、高校側も理解を示してくれました。ただ知人にパラリンピックだけではなく、これまでのようにインターハイや国体など、一般の大会にも出場した方が力がつくのでは、という助言をもらったんです。確かにそうだな、と。実際、インターハイにも国体にも出場しました。
二宮: 1本のストックだけで、インターハイや国体に出場するというのは、並大抵のことではないですよね。
荒井: 本当にその通りです。そのレベルで争うことができるくらい、彼のフォームは見事です。実際、国体の時にストック1本で滑っている彼を見て、役員が左のストックが折れてしまったのだろうと思って、ストックを渡そうとしたというんです。それくらいダイナミックできれいなフォームをしているんですよ。
(最終回につづく)
<新田 佳浩(にった よしひろ)プロフィール>
1980年6月8日、岡山県出身。3歳時に事故で左前腕を切断。4歳からスキーを始め、小学3年時にクロスカントリーに出合う。高2で長野パラリンピックに出場。筑波大学4年時に出場したソルトレークシティーパラリンピックではクラシカル5キロで銅メダルを獲得した。2003年、アディダス・ジャパンに入社。同年の世界選手権、クラシカル10キロで優勝。2006年日立システムアンドサービスに入社。2010年バンクーバーパラリンピックでは日本選手団主将に抜擢された。
<荒井 秀樹(あらい ひでき)プロフィール>
1955年、北海道出身。日本パラリンピックノルディックスキーチーム監督兼日立システムアンドサービススキー部監督。1998年長野パラリンピック開催を機に障害者ノルディックスキー選手の育成・強化に努めている。