二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.05.13
第2回「騒ぎ始めたアスリートの血」
~車椅子バスケの伝道師~(2/4)
二宮: 車椅子バスケットボールを始めたきっかけは?
京谷: 妻が僕の障害者手帳を浦安市役所に交付してもらいに行った時、手続きをしてくれた担当者が千葉ホークスの選手として活躍していた小滝修さんだったんです。小滝さんはその後、僕が初めて出場したシドニーパラリンピックのヘッドコーチになる方なんですけど、その小滝さんが「練習を見においでよ」って誘ってくれたんです。それで事故の翌年、夏過ぎくらいに初めて千葉ホークスの練習を見に行ったのが最初でした。
二宮: 実際に見た車椅子バスケットボールはどんな印象を受けましたか?
京谷: 正直、まだサッカーへの気持ちが強く残っていましたし、「所詮、障害者スポーツだろう」なんて思っていたんです。ところが、いざ見てみると、あまりの激しさに驚いてしまいました。サッカーをやってきた僕でも、「こんなん、できるわけがない」と思ったほどです。
二宮: コンタクトの激しさは並みじゃないですよね?
京谷: いや、もうすごいですよ。だから自分の車輪の替えを何本も持っていないとダメなんです。特に接触の多いポジションの選手は試合で壊れることがあるので、替えのフレームとか、もう1台車椅子を持っていったりしているんです。
二宮: 手が挟まったりすることもあるのでは?
京谷: ありますよ。ただ、倒れた時が一番危ないんです。この間も倒れた時に車椅子のバンパーに顔をぶつけちゃって、血だらけになった選手がいました。手は出さないですけど、車椅子ごとぶつかっていきますからね。
日の丸への憧れ
二宮: そんな激しいスポーツをやろうと思ったのは?
京谷: 千葉ホークスは全国でも随一の強豪でしたから、激しさも半端ではありませんでした。だから最初は本当に踏み切る勇気がなかったですね。でも見学した後、国体にも連れて行ってもらったんです。その時、初めて試合を見て、「うわ、すごい」と。そして選手同士の話を聞いていて、「これはスポーツだな」と思いました。それからですね。車椅子バスケットボールに対して自分の気持ちが少しずつ変わっていったのは。
二宮: それまでバスケットボールの経験は?
京谷: 体育の授業でやったくらいで、あまり得意ではなかったですね。途中で蹴って遊んでいました(笑)。
二宮: それでは慣れるのに時間がかかったのでは?
京谷: まずは自分の体にあった競技用の車椅子がなかったんです。だから空いている車椅子がなければ、練習ができなかった。最初はあまり練習には行きたいとは思わなかったですね。そんな僕を見かねた妻が「車椅子を買ってあげるから、やるからには目標をもってやってね」と。それで結婚披露宴パーティーの時に「パラリンピックを目指して頑張ります」なんて言っちゃったんです(笑)。
二宮: 自分で言った手前、引っ込みがつかなくなったと?
京谷: はい、そうです(笑)。それでも、やっぱり1年くらいは苦労しましたね。車椅子を自分の足のように自在に操つれるようにすることももちろんですが、車椅子を止めるということができなかった。タイヤがゴムでできているので、強く掴むとやけどをしちゃうんですよ。もう何度も何度も指の皮がむけましたよ。それが嫌で、慣れるのに1年近くかかりました。
二宮: しかもプロのサッカー選手だったとはいえ、サッカーとバスケットボールでは同じ球技でも、まるで違いますからね。
京谷: はい。それまで足でボールを操っていたのが、全て手で行わなければいけなくなったわけですからね。でも、ある時サッカーと同じにおいを感じた瞬間があったんです。サッカーでは走っている選手にパスを出すので、その選手の少し前のスペースにボールを入れるんです。車椅子バスケットボールも車椅子をこぎながらパスをもらうので、パスを出す感覚は同じなんです。それで「今まで自分がサッカーでやってきたものを車椅子バスケットボールに活用できるんだ」ということに気がついたんです。車椅子バスケットボールにハマったのは、それからですね。
二宮: そこから日本代表にまで上りつめるには相当な努力が必要だったのでは?
京谷: サッカー選手時代、日本代表で活躍した藤田俊哉や名波浩、名良橋晃なんかと一緒にやっていたんです。当時はみんなと同じく日の丸への憧れを持ってやっていたんですけど、事故を起こしたことでその気持ちを忘れていたんです。でも、俊哉の結婚式に出席した際、みんなが日本代表の話をしているのを聞いて、また日の丸への気持ちが沸々とわいてきたんです。車椅子バスケットボールでパラリンピックという世界最高の舞台に出場できたら、自分にとっても最高なことだし、僕に対して「サッカーができなくなって残念」と思っている人たちにも納得してもらえるんじゃないかって思ったんです。それが本気で日本代表を目指すきっかけになりましたね。
(第3回へつづく)
<京谷和幸(きょうや・かずゆき)プロフィール>
1971年8月13日、北海道生まれ。小学2年からサッカーを始め、室蘭大谷高校時代にはインターハイ2回、高校選手権3回、国民体育大会3回出場。3年時の選手権では優秀選手に選ばれた。2年時にはユース代表、3年時にはバルセロナオリンピック代表候補にも選ばれるなど、将来を嘱望されていた。高校卒業後、古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)に入団したが、93年に自動車事故で引退。94年から車椅子バスケットボールチームの千葉ホークスに所属し、全国車椅子バスケットボール選手権大会で8度の優勝を経験。日本代表としても活躍し、シドニー、アテネ、北京と3大会連続でパラリンピックに出場した。今年7月に英国・バーミンガムで開催される世界選手権代表にも選出された。
現在は、(株)インテリジェンス(総合人材サービス業)提供の障がい者専門人材サービス事業にて、自身の経験や視点を生かし、企業や個人に向けたアドバイスを行う"障がい者リクルーティングアドバイザー"としても活動している。
(構成・斎藤寿子)