二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.07.01
第1回 競技大会としての発展と課題
~日本障害者スポーツの実相~(1/5)
今年3月に開催されたバンクーバーパラリンピックでは史上最多の11個のメダルを獲得した。しかし、メダルを獲得した選手の多くは企業に所属しており、国レベルでの支援はまだ十分とはいえないことなど、まだ課題は多い。そこで、バンクーバー大会では日本選手団団長を務め、長年障害者スポーツ界発展のために奔走してきた日本障害者スポーツ協会の指導部・企画情報部部長および日本パラリンピック委員会(JPC)事務局長・中森邦男氏に、障害者スポーツのあるべき姿について訊いた。
二宮: 国内では障害者スポーツはどのような歴史を辿ってきたのでしょうか?
中森: 1965年から厚生省(現・厚生労働省)が主催する全国身体障害者スポーツ大会、92年から全国知的障害者スポーツ大会(ゆうあいピック)が開催されてきました。しかしこれらは競技性を求めるものではなく、あくまでも障害者の社会参加の推進が目的とされたため、当初の全国身体障害者スポーツ大会は、一度出場した選手は2度目の参加が認められませんでした。現在これらは統合されて全国障害者スポーツ大会として国民体育大会の後、同じ会場で開催されています。
これらの大会の他、競技として行なわれていたのは各競技団体が主催する日本選手権でした。私が関わった水泳の場合は、81年に第1回が開催されています。私は76年、大阪市身体障害者スポーツセンター(現・大阪市長居障害者スポーツセンター)にスポーツ指導者として就職しました。その後、選手たちが毎年参加できる水泳大会をつくろうという話が持ち上がり、水泳クラブの人たちと一緒になって、水泳大会を開催しました。そして、5年後に大会参加者の地域の代表者により日本身体障害者水泳連盟をつくって、第1回目の日本選手権を開催しました。
現在、水泳、陸上競技、アーチェリー、アルペンスキー、クロスカントリースキー、アイススレッジホッケーでは、JPCと各競技団体の共催によって日本最高峰の大会であるジャパンパラリンピック競技大会が行われています。
二宮: 障害者スポーツの特徴として、細かくクラス分けがなされています。その基準は世界と国内では統一されているのでしょうか?
中森: 全国身体障害者スポーツ大会は、日本政府が発行している身体障害者手帳に記載されている内容を基準にクラス分けが行われていました。現在各競技団体が実施する日本選手権大会やジャパンパラリンピックでは、国際のクラス分けが実施されています。国際のクラス分けが現在の形になったのは、国際パラリンピック委員会(IPC)が設立された89年以降、つまり92年のバルセロナ大会からになります。
勝敗のカギを握るクラス分け
二宮: 88年のソウルまではどんな分け方をされていたのですか?
中森: 全競技が単純に医学的な根拠で分けられていました。例えば前腕切断の選手は同じ前腕切断の選手とのみ競っていればよかった。ところがIPCは同じ障害でも競技によって能力の差は異なるという判断を示しました。そこでバルセロナ大会からは競技ごとにクラス分けの基準が設けられるようになりました。いわゆるファンクショナル・クラシフィケーション(機能的クラス分け)。つまり、身体のどの部位にどんな障害があるかで分けるのではなく、水泳なら泳ぎの能力がどれだけあるかを見るようになりました。
二宮: 競泳は現在、どのようにクラス分けをされているのですか?
中森: はじめに各関節の筋力と可動域がチェックされます。次に、水深2m以上の深いプールで、飛び込み、ターン、浮き身、4泳法などの実際の動きがチェックされます。その後も複数のテストを受け、その評価によりクラスが決定されます。未熟な選手は、練習することで上達することもありますので、潜在的な能力も含めて、総合的にクラスが決まることになります。
二宮: 現在、クラスはいくつくらい?
中森: 肢体不自由と視力障害の2つのカテゴリーがあるのですが、肢体不自由の場合は各種目10クラス。平泳ぎのみ9クラスです。視力障害の場合は全種目3つ。弱視は見える度合いによって2つに分かれていて、あとは全盲のクラスとなります。
二宮: スキー競技などでは各選手にハンデ(係数)がつけられていますね。
中森: 夏の競技に比べて冬の競技人口は少ない。スキーで言えば、立位(スタンディング)のカテゴリーで片下肢に障害がある選手は結構いるのですが、両下肢となると少ない。さらに座位(シッティング)のカテゴリーになると、特に女子は少ないですね。
パラリンピックの規定では1クラスに4カ国6人以上の参加が競技実施の条件となります。片下肢と両下肢に分けてしまうと、参加人数が不足し、競技が実施できなくなります。そういった状況を改善するために、各選手のクラスを競技能力により、実際の滑走タイムにその係数を乗じた記録で競うようにしました。
二宮: クラス分けの基準が変更されることも少なくありません。対応するのも一苦労ですね。
中森: そうなんです。例えばアテネパラリンピックで競泳の成田真由美さんが100メートル自由形で2位の選手を20メートル以上離して優勝しました。一般のスポーツと違って障害者スポーツは競技人口が少ない。たまたま彼女のクラスに競技能力の高い選手がいなかっただけということもありうるわけですが、明らかに能力が違うだろうということで、クラス分けの評価の基準が見直され、その結果、軽いクラスへの変更となりました。北京大会では残念ながら、メダルを獲ることはできませんでした。同じクラスでも、1つ軽いクラスのボーダーラインの選手と1つ重いクラスのボーダーラインの選手とでは、競技能力に雲泥の差が生じることになります。成田選手が軽いクラスに入れば、そのクラスでのトップ選手と差が出てくるのは当然だったと思います。クラス分けの基準は本当に難しいですよ。
(第2回につづく)
<中森邦男(なかもり・くにお)プロフィール>
1953年、大阪府出身。大学卒業後、大阪市長居障害者スポーツセンターに入職し、障害者スポーツ指導員として水泳を教えた。日本障害者水泳連盟の設立に尽力するなど、障害者スポーツの発展に奔走してきた。現在は日本障害者スポーツ協会の指導部・企画情報部部長および日本パラリンピック委員会事務局長を兼任。今年のバンクーバーパラリンピックでは日本選手団団長を務めた。
(構成・斎藤寿子)