二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.07.08
第2回 全国に広がる障害者専用施設
~日本障害者スポーツの実相~(2/5)
二宮: 中森さんはどのようにして障害者スポーツと関わってきたのでしょうか?
中森: 1964年の東京オリンピック後にパラリンピックの前身である国際ストーク・マンデビル競技大会(東京パラリンピック)が開催されました。これを機に日本国内の障害者スポーツ振興が進み始めました。それ以前は、障害者が地域でスポーツに参加する環境はほとんどありませんでした。その10年後の74年、大阪市に障害者にもスポーツを楽しんでもらおうと障害者専用のスポーツ施設「大阪市身体障害者スポーツセンター(現・大阪市長居障害者スポーツセンター)」がつくられました。このとき私は大学生で、このセンターで障害者と一緒に泳ぎ、そのかかわりを持ちました。
二宮: 当時の日本では非常に画期的なものだったのでは?
中森: はい、国内で初めての障害者専用のスポーツ施設でした。世界では一般施設に障害者が利用できるような配慮はありましたが、施設自体が障害者専用というのはなかったでしょうね。これが日本障害者スポーツの基礎をつくったのではないかと思います。
その施設ではさまざまなスポーツの教室が開かれたのですが、水泳教室の指導者に僕が通っていた大学のOBが指名されました。当時、私は大学3年生。このOBからの依頼で、スポーツセンター設立の夏から、プールでの監視のアルバイトを始めました。そんなことが縁で指導課長から誘われるかたちで大学卒業後、その施設のスポーツ指導者として就職しました。
二宮: 施設内はどんな内容になっているのでしょうか?
中森: バスケットコート一面分の広さの体育室や25メートル6コースの室内温水プール、4レーンのボウリング場、卓球室、トレーニング室。それに食事もできるラウンジ。後になって、子ども用の遊戯室やトランポリンを常設した小体育室も増設されました。もちろん、館内はバリアフリーになっていて、点字ブロックもありますし、トイレも介護ができるように通常より広めにつくられています。
市民体育館など公共のスポーツ施設と大きく異なっている点は、障害者スポーツセンターのスポーツ施設にはスポーツ指導員が配置され、利用する障害者の要望により、指導や相手をするなど幅広い支援が行われている点です。
障害者スポーツ発展への礎
二宮: 現在では障害者専用施設は全国にどのくらいあるのでしょうか?
中森: 人口の多い政令指定都市を中心に全国で22の施設があります。当初は利用する障害者の家族や友人以外の健常者は利用することができませんでした。しかし、途中から障害者を優先して、空いている時間帯には健常者も利用することができるような交流型の施設が増えてきています。
二宮: まだまだ十分ではありませんが、それでもひと昔前に比べれば、障害者がスポーツを楽しむことができる環境が整備されてきたと。
中森: はい、そうですね。ただ、障害が軽い人たちにとっては参加しやすくなってきていますが、障害の重い人たちはなかなかスポーツに関わることができない、という課題もあります。
二宮: それらの施設では、障害者のスポーツ大会も行われているのでしょうか?
中森: センター主催の特色を生かした大会と競技団体主催の大会が毎年多く開催されています。私たちが81年に初めて水泳の日本選手権を開催した時には、長居障害者スポーツセンターで行いました。25メートルのプールでしたが、「狭いところでも継続してやっていこう」ということで、その後も東京や名古屋などの障害者専用のスポーツセンターを中心に開催してきました。
二宮: パラリンピックのような国際大会では50メートルのプールで行われています。
中森: はい、そうです。ですから現在、日本最高峰の大会であるジャパンパラリンピック水泳大会は、室内50メートルプールの「なみはやドーム(大阪府立門真スポーツセンター)」で開催しています。
二宮: 以前の25メートルプールでは記録が公認されなかったのでは?
中森: 例えばパラリンピックに出場するためには、申込書に自己記録を記入し、標準記録を切ったと証明しなければなりません。ところが、日本には国際ルールに基づいてクラス分けされた大会がなかった。各団体が独自で行なっていただけだったのです。そこで国際大会に向けた大会を開催しようとつくられたのが、91年から財団法人日本身体障害者スポーツ協会と各競技団体との共催で行なわれているジャパンパラリンピックだったのです。
(第3回につづく)
<中森邦男(なかもり・くにお)プロフィール>
1953年、大阪府出身。大学卒業後、大阪市長居障害者スポーツセンターに入職し、障害者スポーツ指導員として水泳を教えた。日本障害者水泳連盟の設立に尽力するなど、障害者スポーツの発展に奔走してきた。現在は日本障害者スポーツ協会の指導部・企画情報部部長および日本パラリンピック委員会事務局長を兼任。今年のバンクーバーパラリンピックでは日本選手団団長を務めた。
(構成・斎藤寿子)