二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.09.16
第3回 障害者は人生の先輩だ!
~障害者スポーツの未来を考える~(3/5)
二宮: 河合さんは生まれつき左目は見えなかったということですが、15歳までは右目は見えていたそうですね。15歳といえば思春期でもありますし、徐々に光を失っていく過程では苦しみや葛藤もあったのではないでしょうか?
河合: 右目は見えていたとは言っても、視力は0.1くらいしかなかったんです。確かに徐々に見えなくなっていく中で、「いつか失明する日が来るのかな」という気持ちはありました。しかし、中学生でしたから勉強や水泳、友達と遊ぶことなど、毎日やることがたくさんありましたので、将来に絶望的になって悩んでいる暇はなかったですね。
二宮: 風景など、15歳まで見えていたものの記憶ははっきりと残っているんですか?
河合: はい、残っていますよ。これは発想次第なのですが、よく視力があったために、見えていたものが徐々に失われていく恐怖感を味わったとマイナスの考え方をする人がいます。でも、僕の考えはちょっと違うんです。全盲になったことで、これまでとは新しい世界観を手に入れることができた。つまり、僕には見えていた時と見えなくなってからと、2つの世界観が存在するんです。普通の人は見える世界で留まっているけれども、僕はもう一つ違う世界を知っている。他の人とは違う経験をし、感覚を持っている僕だからこそ、伝えられるものがあるのではないかと思っているんです。
二宮: 河合さんは子どもの頃から前向きな性格だったんでしょうか。
河合: いえいえ、やっぱり悩んだ時期もありましたよ。特に高校生の頃は自分が障害者だということを理解できなかったというか、受け入れられずにいました。「見えないってことはどういうことなんだろう」とひとしきり悩んだこともあります。でも、そのうちによくも悪くも、僕は障害者として生きていかなければならないんだという自覚がもてるようになると、開き直ることができたんです。
"障害"は人生につきもの
二宮: 大学入学を機に親元を離れて上京されました。苦労も多かったのでは?
河合: そうですね。今では杖一本あれば、電車にも乗れるし、どこでも一人で行くことができますが、最初は一人で町を歩くことができませんでしたね。初めての所ばかりで道はわからないし、もうどうしたらいいんだろうって途方に暮れたこともありました。結局は人に聞くしかないんですけど、最初はもう恥ずかしくて......。いろいろと葛藤もあったんですけど、ふと思ったんです。今、見えている人たちだって、自分のように失明したら、みんな人に聞くしかないわけで......。なんだ、普通のことなんだ、って。そしたら、人に聞くことが恥ずかしいとは思わなくなったんです。そういうところから、少し後ろ向きだった自分が前向きにものごとを考えられるようになってきたんじゃないかなと思います。
二宮: 単純にわからないことは聞けばいいと。考えてみれば、視力があろうがなかろうが、分からないときは人に聞くしかありませんからね。
河合: そうなんですよね。見える、見えないの問題じゃなくて、目的地に行きたいという行為を実現できない"障害"と捉えれば、みんな一緒なんですよね。
二宮: 例えば、最近では整理整頓ができないことを「生活障害」と言うんだそうです。そう考えると、誰しも何かしらの「障害」を抱えて生きているわけで、特別のものでもなんでもない。
河合: はい。今、増えつつある「精神障害」なんて、それこそたくさんいますよ。みんな悩みや苦労を背負って生きているわけですから、細かいところまで拾っていけば、人間誰しも人生に1度2度、「精神障害」になっていると言っても過言ではありません。
二宮: 大事なことは、「障害」を共有し合っていくこと。排除の対象にするのは間違っていますね。
河合: その通りです。人間、年をとれば目も悪くなるし、体のいろいろなところにガタがきます。そう思えば、僕たち障害者を"人生の先輩"だと思ってもらってもいいんじゃないかと思いますね。例えば、僕は目が見えないという中で20年間生きているわけです。そしたら、20年分の経験があるわけで、その僕の意見を聞いてもらえたら、もっと住みやすくできるんじゃないかと。自分たちが将来、高齢者になった時に同じような状況になるかもしれないわけで、それを僕たち障害者は体現して生きている。だったら、その人たちの意見を参考にして、どうすればいいかを考えるのは当然のことではないでしょうか。
(第4回につづく)
<河合純一(かわい・じゅんいち)プロフィール>
1975年4月19日、静岡県出身。5歳で水泳を始め、パラリンピックにはバルセロナから5大会連続出場。金5個、銀9個、銅7個の計21個ものメダルを獲得した。先天性ブドウ膜欠損症で生まれつき左目の視力がなく、15歳の時に右目も失明し全盲となる。しかし、教師への夢を諦めず、早稲田大学卒業後の98年には母校の舞阪中学に社会科教諭として赴任。2008年からは静岡県総合教育センター指導主事を務めた。今年7月の参議院選挙にはみんなの党から静岡選挙区で出馬。惜しくも次点で落選するも、今後もみんなの党の一員として活動し、政界に一石を投じる。現在、日本パラリンピアンズ協会会長を務める。
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◇Keeping Alive The Dreams
(構成・斎藤寿子)