二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.04.07
第1回 パラリンピックのエリート化の意義と課題
挑戦者たち1周年特別企画
~障害者スポーツの未来を語る~(1/4)
東京オリンピックの約1カ月後の1964年11月3日、国内で初めてパラリンピックが開催された。それは日本の障害者スポーツの第一歩を踏み出した瞬間だった。日本で最初にパラリンピックの必要性を唱え、強いリーダーシップで実現にこぎつけたのが日本選手団の団長を務めた故・中村裕氏だ。1951年、英国のストーク・マンデビル病院に留学した中村氏は障害者スポーツの創始者・ルードヴィッヒ・グットマン博士と出会い、障害者スポーツの存在を知った。帰国後、障害者スポーツを推進するとともに、障害者の自立を図るために65年、身体障害者授産施設「太陽の家」を創設。企業と提携して共同出資会社をつくり、障害者に雇用の場を提供するとともに障害者スポーツの普及にも力を注いだ。その中村氏の理念を継承し、現在、「太陽の家」の理事長として障害者の自立支援に尽力しているのが中村太郎氏だ。今回は二宮清純が「太陽の家」を訪れ、中村理事長と障害者スポーツの現状と将来について熱く語り合った。なお、司会はNPO法人STANDの伊藤数子副代表が務めた。
伊藤: 今回は「挑戦者たち」開設1周年記念企画として社会福祉法人「太陽の家」の理事長・中村太郎氏をゲストにお招きしました。障害者スポーツについて、いろいろとご意見を伺いたいと思います。現在、一般スポーツと障害者スポーツを併合し、「スポーツ省」「スポーツ庁」の創設への声は増すばかりです。文部科学省が策定を目指している「スポーツ立国戦略」の中にも障害者スポーツが含まれており、障害者スポーツの変革期を迎えていると言っても過言ではありません。その背景にはパラリンピックのエリート化が挙げられます。来年にはロンドン大会が開催されますが、中村理事長はパラリンピックについてどんな考えをもたれていますか?
中村: パラリンピックにおける障害者スポーツは、日本でもすっかりエリートスポーツとして認識されるようになってきたなと感じています。課題はあるにしろ、やはり障害者スポーツの最高峰の大会としてエリート化が進むのは非常にいいことだと思いますよ。
伊藤: 中村理事長自身、シドニー大会とアテネ大会ではチームドクターとして日本選手団に帯同されました。
中村: 私は大学卒業後、1984年から車椅子マラソンに関わっていますが、最初はやはり障害者スポーツに対してリハビリという意識の方がどうしても強かったんです。しかし、シドニーパラリンピックで選手団に帯同した際に世界のトップ選手を目の当たりにして、初めて障害者にもエリートスポーツというものがあることを理解することができました。
二宮: 日本でパラリンピックが初めて開催されたのは64年の東京大会でした。この時、先導役となったのが先代の中村裕先生です。つまり中村先生は日本において"パラリンピックの父"ということになりますね。
中村: その頃、日本では医者が障害者スポーツのリーダー役を担っていたようですね。東京パラリンピックでは選手団といっても、父が勤めていた病院の患者さんたちで構成されていたというのが実情なんです。
二宮: そもそも当時、日本でスポーツをしている障害者はほとんどいなかったのではないでしょうか。
中村: はい、そうなんです。父は英国から帰国してから、日本にも障害者スポーツを普及させようとしたのですが、なかなか思うようにはいかなかったようです。それでメディアに注目してもらおうと、東京オリンピックの後にパラリンピックを開催しようとしたんです。二宮さんが言われたように、スポーツをやっている障害者は皆無でしたから、自分の患者さんたちを集めてやったんですね。その後も80年代くらいまでは、障害者スポーツはリハビリの一環としてしか見られていなかった。そのために競技にもよるとは思いますが、医者がリーダー的存在となって、大会の運営から選手の選考までやっていたんです。それが段々と普及していき、今では医者の役割といえば、ドーピング検査くらいのものですよ。
クラス統合による弊害
伊藤: 2008年の北京パラリンピックでは「超エリートスポーツ」という言葉も出てきました。それほどパラリンピック、ひいては障害者スポーツが世界で認められてきたということではないでしょうか。
中村: その通りだと思いますね。私は基本的にエリートスポーツ化には賛成ですが、一方で課題もあると思っています。エリートスポーツ化が進む中で、現在は頻繁にクラスの統合が行なわれています。例えば、車椅子マラソンでは頸髄損傷のような重度の障害をもつ選手のためのクラスが排除されてきています。私も関わっている大分国際車いすマラソンでは、やはり重度障害者にも参加してほしいということで重度のクラスを残していますが、パラリンピックをはじめとした国際大会では失われつつあります。今後はさらに統合化が進むことでしょう。そうなれば、重度障害者の競技スポーツが成り立たなくなってきます。
二宮: クラスが統合されれば、必然的に重度の障害者には不利になります。08年の北京パラリンピックでは競泳の成田真由美選手がそうでした。彼女はそれまでアトランタ、シドニー、アテネと3大会連続出場し、計20個ものメダル(金15、銀3、銅2)を獲得した、まさに"水の女王"でした。ところが、北京では突然のクラス変更で軽度のクラスに入れられてしまい、無冠に終わりました。このように重度の障害者が活躍する場が少なくなるという現実があります。
中村: パラリンピックの一番の趣旨はリハビリではなく、エリートスポーツとしての確立なんですね。その中には重度障害者の競技スポーツも含まれています。とはいえ、エリートスポーツということになると、重度障害の選手の扱いに問題が生じてきているのも事実なんです。例えば、競技によっては重度のクラスには3人しかエントリーしていないこともあります。そうすると、その中で世界一を決めるというのはやはり違うのではないかという意見が出てくる。これまでのパラリンピックではエントリーが極端に少ない場合は、クラスを統合してプレイベントとして行なわれたこともあるんです。
伊藤: IPC(国際パラリンピック委員会)とはまた別に、重度の障害者が活躍できる組織や大会をつくってはいかがでしょうか?
中村: そういう方法もあるとは思いますが、パラリンピックがこれだけ世界最高峰の大会として認められているわけですから、やはりそこで一緒に行なわれる方がいいと思います。それに、重度障害者にもエリートスポーツはあると思うんですね。陸上や競泳では難しいかもしれませんが、例えばボッチャのように重度障害者のためにつくられた競技もある。そういった競技をもっとエリート化していくことで、重度障害者にも活躍の場を提供できるのではないでしょうか。
(第2回につづく)
<中村太郎(なかむら・たろう)プロフィール>
1960年9月、大分県生まれ。日本の障害者スポーツの創始者・中村裕氏(故人)の長男。川崎医科大学卒業後、大分医科大学整形外科、九州労災病院整形外科を経て、2000年より医療法人社団恵愛会大分中村病院院長を務める。06年、社会福祉法人「太陽の家」理事長、翌年には大分中村病院理事長に就任した。医師の傍ら、障害者スポーツの普及にも尽力し、00年シドニー、04年アテネのパラリンピックでは日本選手団のチームドクターを務めた。
日本における"障害者スポーツの父"中村裕氏(故人)が「身障者に保護より働く機会を」「世に身心障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」という理念の下、1965年に身体障害者授産施設として大分県別府市に創設した。障害者に働く場を提供するために72年、オムロンとの共同出資会社「オムロン太陽株式会社」を設立。その後も「ソニー・太陽株式会社」(78年)、「ホンダ太陽株式会社」(81年)、「三菱商事太陽株式会社」(83年)、「デンソー太陽株式会社」(84年)、「オムロン京都太陽株式会社」(85年)、「ホンダアールアンドデー太陽株式会社」(92年)、「富士通エフサス太陽株式会社」(95年)と日本を代表する大手企業と提携し、障害者の雇用の場を拡大している。これらの企業では健常者と障害者が共に働き、ソフト開発など幅広く事業展開している。
施設内には体育館やトレーニング室、プール、浴場などがあり、これらは一般者にも開放している。周辺には障害者が働く銀行、スーパーマーケットなどがあり、入所者は地域の住民との交流を図りながら、積極的に社会参加している。
また、スポーツへの取り組みも盛んに行なわれている。車椅子バスケットボールチーム「太陽の家スパーズ」は毎年3月に行なわれている「朝日九州車いすバスケットボール選手権大会」では現在6連覇中の強豪で、5月に開催される「日本車椅子バスケットボール選手権大会」(2011年は中止)の常連だ。そのほか、車椅子ツインバスケットボール、インドアサッカー、車いすテニス、ローリングバレーボール、卓球バレー、ボッチャ、陸上競技などが行なわれている。これらは健常者と一緒に楽しむことができ、住民との交流の場ともなっている。
多くのパラリンピック選手も輩出しており、オムロン太陽に勤める笹原廣喜(北京後に現役引退)は北京大会男子車いすマラソンの銀メダリスト。また、北京でボッチャでは日本人初のパラリンピック出場を果たした木谷隆行は「太陽の家」の制御機器科に所属し、オムロン太陽で作業訓練している。
別府本部とは別に愛知、京都にも事業本部を設立し、現在は1021人(2011年3月1日現在)の障害者が働き、地域住民とともに暮らしている。
(構成・斎藤寿子)