二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.04.14
第2回 車いすマラソン誕生秘話
挑戦者たち1周年特別企画
~障害者スポーツの未来を語る~(2/4)
伊藤: 先代の中村裕先生は、最初から障害者スポーツを競技として扱われていた方でした。
中村: 1981年に初めて大分国際車いすマラソン大会が開催されて昨年で30回目を迎えました。その第1回の時に、カナダとオーストリアの選手がゴール前でお互いにスピードを緩めて一緒にゴールしたんです。彼らとしては、友情の気持ちとして同時優勝しようとしたんですね。ところが、私の父はそれを許しませんでした。「これはスポーツなのだから、勝敗を決める!」と言って、どちらの選手の前輪が先にゴールラインを越えていたかを写真判定して、きちんと順位を決めたんです。
二宮: それは素晴らしい。30年前といえば、障害者スポーツはリハビリの一環としか見られていなかった時代です。そのような時代に中村先生のようなお考えをしていた人は他にいなかったのではないでしょうか。
伊藤: 当時は障害者スポーツへの理解がほとんど得られない時代で、中村先生が大分国際車いすマラソンを開催することに対して反対の意見も少なくなかったそうです。
中村: そうですね。東京パラリンピックの頃は、「障害者をさらしものにして、それでも医者か!」と言われていたそうです。大分国際車いすマラソンを始めた80年代はそこまでのバッシングはなかったものの、障害者に2時間も3時間も運動させて、かえって健康を損なうのではないかという懸念の声も上がっていたようですね。
二宮: それでも中村先生は強い意思をもってやられたわけですよね。この大会が開催されるようになったことで、日本の障害者スポーツはまた新たな一歩を踏み出すことができたのではないでしょうか。
中村: 本当は世界で初めて車いすマラソンランナーを受け入れて行なわれたボストンマラソンのように、健常者のランナーと混ざって車いすランナーが走る構想を練っていたんです。そこで父が「別府大分毎日マラソン」の中に入れてもらおうと掛け合ったのですが、当時の日本体育協会と大分陸上競技協会に「足で走ることがルール」という理由で断られてしまいました。それでやむなく、単独開催ということになったんです。
二宮: 「足で走ることがルール」というのは、障害者には残酷ですね。遠回しに「障害者には無理だ」と言っているようなものです。そういう圧力を跳ね返して開催したのですから、中村先生にはそれだけ強い使命感があったんでしょうね。
障害者にとってのスポーツとは?
伊藤: 中村先生は車いすマラソンのほかにもさまざまな競技の普及に尽力されました。そのおかげで現在では、国内に障害者スポーツの競技団体は61あります。中村先生が普及に努めていた頃と今とでは、障害者スポーツへの認識に違いは出てきているのでしょうか?
中村: 父が大分国際車いすマラソン大会を開催したのは、普及という意味もあったのですが、もう一つ大きな理由がありました。それは当時はほとんど認められていなかった障害者の社会参加の促進だったのです。そのためにはまず、世間に障害者の存在を広く知ってもらわなければいけません。そこで世間の目を引こうと、マラソン大会を行なったのです。
二宮: そうした中村先生の尽力のおかげで、障害者の社会参加はかなり広がりました。そこから、さらに前進し、今では障害者スポーツを社会参加のためのツールとしてではなく、純粋なスポーツととらえている人々が主流になってきたのでは?
中村: 私もそう思っていたのですが、車いすランナーの中には未だに「自分たちにとってスポーツは社会参加のためにやっている」と言う人もいるんですね。それを聞いて、ちょっとビックリしてしまいました。
二宮: まだまだ純粋なスポーツとして認識されるには時間がかかると?
中村: はい。私自身は、そういう考えはもう20年くらい前のものと思っていたのですが......。やはりまだ障害者にとっては、スポーツをツールにしないと社会参加が難しい人もいるのかなと、改めて考えさせられました。ただ、そういう意識の人たちは大方がベテランなんです。昔ながらの考えが未だにあるんでしょうね。しかし、若い人たちはスポーツを純粋に楽しんでいると思います。そういう意味では障害者のスポーツへの認識も、着実に変わってきているのではないでしょうか。
(第3回につづく)
<中村太郎(なかむら・たろう)プロフィール>
1960年9月、大分県生まれ。日本の障害者スポーツの創始者・中村裕氏(故人)の長男。川崎医科大学卒業後、大分医科大学整形外科、九州労災病院整形外科を経て、2000年より医療法人社団恵愛会大分中村病院院長を務める。06年、社会福祉法人「太陽の家」理事長、翌年には大分中村病院理事長に就任した。医師の傍ら、障害者スポーツの普及にも尽力し、00年シドニー、04年アテネのパラリンピックでは日本選手団のチームドクターを務めた。
三菱商事株式会社と社会福祉法人「太陽の家」の共同出資で1983年12月に創業。初代社長には当時の「太陽の家」理事長・中村裕氏(故人)が就任した。翌年2月から社員10名でスタートする。現在(2011年1月1日)では、北海道事業所、東京事務所を含め、83名の従業員が働き、うち47名が障害者だ。主な事業内容はコンピュータによる情報処理の受託、マルチメディア・コンテンツの制作。「障害者と健常者の"共生"、企業としての"自立"、新たな"企業価値"」の企業理念の下、健常者と障害者を区別することなく、能力に応じた業務提供が行なわれている。
こうした障害者が働く場とともに、同社周辺には気軽に余暇活動を楽しむことができる環境が整っている。『太陽の家』施設内にある体育館などを利用し、社員は健常者、障害者が一緒になってツインバスケットボールや卓球バレーなどスポーツ活動にも積極的に参加している。
2006年には総務・管理部長の山下達夫氏が障害者としては初めて取締役に就任した。1歳2か月の時、風邪が原因で小児麻痺となり、四肢が麻痺する重度の障害を抱えた山下氏は1977年、18歳で「太陽の家」に入所する。79年より情報処理科で研修を受け、83年、三菱商事太陽の設立と同時に入社した。
「今やIT事業は障害者の雇用の場として欠かせませんが、入社した当時はこれほど広がるとは思ってもいませんでした。でも、設立した当初、玄関までお見送りした際に、中村裕先生がこう言われたんです。『これからはITの時代になるから頑張りなさい』と。そして車の窓から手を差し伸べてくれて、握手をしてもらいました。これが中村先生との最後でした。やっぱり中村先生には先見の明があったんですね」。
山下氏は今、同社のみならず、全国の障害者にとってロールモデルとなっている。
(構成・斎藤寿子)