二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.06.09
第2回 負けず嫌いが競技者の原点
~注目!世界の頂に最も近い日本人ジャンパー~(2/5)
二宮: ソフトテニス選手として復帰することだけを考えて切断に踏み切ったという話ですが、実際、義足でのプレーはいかがでしたか?
中西: 入院している時は、義足さえつければ元の自分に戻れるとばかり思っていたんです。ところが、全くそうではなかった。地元の装具士の方に「テニス用の義足をお願いします」と言ったら「そんなものはないから無理だ」と言われたんです。その時、初めて少しだけ切断したことを後悔しました。「えっ!?義足もないのに、私、切断しちゃたんだ......」と。でも、周りから「しょうがないよ」と言われた時、納得できなかったんです。だから「いつか、見返してやりたい」と思ったんです。
二宮: ちょうどその時に陸上に出合ったわけですね。
中西: インターネットで義足のことを調べたら、スポーツ義足製作の第一人者の臼井二美男さんを見つけたんです。すぐに連絡をしてお会いしました。その時に臼井さんから誘われて初めて観に行ったのが、熊本であった「九州チャレンジ陸上競技選手権大会」でした。その時に「ここにいる人たちに負けたくない」と思ったんです。
二宮: 相当な負けず嫌いなんですね(笑)。
中西: そうですね(笑)。というのも、私は高校時代、ソフトテニスに全てをかけて厳しい練習にも耐えました。友達や妹が遊んでいる時も、とにかく練習に明け暮れたんです。当時は練習中に水も飲んではいけないというような時代だったので、本当に辛かった。そんな高校生活を思い出したら、「この中に私ほど厳しい練習に耐えてきた選手はいるのだろうか」と。だったら、私も負けていられないと思ったんです。
世界を知った北京パラリンピック
二宮: その思いがあったからこそ、1年後の北京パラリンピックでは100メートル6位、200メートル4位という結果を出せたんでしょうね。初めてのパラリンピックはいかがでしたか?
中西: 決勝の前にコールルームでファイナリストたちが待つ時間があるんです。みんなほとんど顔見知りのメンバーばかりの中、私は新顔だったので、ちょっとその場に馴染めなかったですね。「これが世界か......」という感じでした。
二宮: とはいえ、初めてのパラリンピックで義足の短距離選手としては日本人女子初の入賞です。
中西: そういうふうに言われたくなかったんです。「初めてのパラリンピックにしては」ではなく、「初めてなのにメダル獲得」というふうに言われたくて表彰台を目指したのですが......。やっぱり甘かったですね。
二宮: 満足感はなかった?
中西: 全くなかったですね。逆に恥ずかしくて「このままじゃ、日本に帰れない」と思っていたくらいです。自分が井の中の蛙だったということが身に染みました。
(第3回につづく)
<中西麻耶(なかにし・まや)プロフィール>
1985年6月3日、大分県生まれ。高校時代はソフトテニスでインターハイに出場。卒業後、08年大分国体を目指したが、仕事中の事故でひざ下を切断した。07年から陸上を始め、翌年の北京パラリンピックでは100メートル6位、200メートル4位入賞を果たした。現在は練習拠点を米国に移し、ロサンゼルス五輪・三段跳金メダリストのアル・ジョイナーから幅跳びの指導を受け、世界記録(5m09)更新を目指している。世界ランキングは100メートル(13秒84)8位、200メートル(28秒52)6位、幅跳び(4m96)4位(いずれも日本記録)(2011年5月現在)。
(構成・斎藤寿子)
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