二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.06.23
第4回 スポーツに障害の有無は関係なし!
~注目!世界の頂に最も近い日本人ジャンパー~(4/5)
二宮: 現在、練習の拠点はアメリカということですが、きっかけは何だったのでしょう?
中西: 北京パラリンピックです。日本記録を持っていましたし、自分では表彰台を狙っていたつもりでしたが、結果は入賞どまり。その時、自分がいかに井の中の蛙だったかということに気づいたんです。日本という小さな世界しか知らなかった私は、どこかで満足していたんじゃないかって。だから、海外でグッシャングッシャンにもまれないとダメだなと思いました。
二宮: なるほど。北京での悔しさが海外行きを決意させたと。
中西: 悔しいというよりは、情けなさでいっぱいでしたね。それに自分を試したかったというのもあったんです。海外に行ってやってみて、「日本に帰りたい」と思うんだったら、もう陸上は辞めようと。でも、もしそこで生き残ることができたのなら、自分の陸上への気持ちはホンモノなんじゃないかと思ったんです。それで親しくさせてもらっていたドイツの陸上連盟の方に相談したところ、アメリカ行きを薦めてくれました。
二宮: 招待選手というかたちだったんですか?
中西: 招待というわけではありませんが、北京パラリンピックで入賞していましたし、日本記録保持者でもありますので、サンディエゴにあるナショナルトレーニングセンターで練習できることになったんです。
二宮: 当然、オリンピック選手もいるわけですよね?
中西: はい、普通に一緒に練習しています。私にとっては、オリンピック選手と練習できることも、いい刺激になっているんです。
五輪金メダリストとの出会い
二宮: 現在、中西選手は短距離のほかに、走り幅跳びをしていますが、いつから始めたのですか?
中西: 北京パラリンピックの時は、まだ本格的にやっていなかったので出場はしなかったのですが、ずっとやってみたいという気持ちはあったんです。本格的に始めたのは初めてアメリカにトレーニングに行った際、アル・ジョイナーと出会ってからですね。
二宮: アル・ジョイナーは1984年ロサンゼルスオリンピックの三段跳金メダリストですよね。出会いのきっかけは?
中西: 初めてアメリカに行った当初は、他のコーチから指導を受けていたんです。ところが、ドイツとオランダに遠征に出かけて戻ってきたら、コーチがいなくなっていました。他国に引き抜かれてしまったんです。当時はほとんど英語もできないし、途方に暮れましたね。本格的に幅跳びもやろうと思っていましたから......。それでも、とにかく毎日トレーニングセンターに行って、一人で練習はしていたんです。そしたらある日、アメリカのトラック&フィールドのオフィシャルコーチとしてセンターで指導していたアルの方から声をかけてきてくれたんです。「たった一人で練習しているけど、大丈夫なのか?」って。それで理由を話したら「じゃあ、僕が見てあげるよ」と言ってくれて。それがきっかけで彼の指導を受けるようになったんです。
二宮: アメリカではオリンピックもパラリンピックも、同じ指導者が教えている。
中西: そうですね。アメリカではいたって当たり前のことです。だからチームメイトにはオリンピック選手もいれば、パラリンピック選手もいます。コーチも私自身も「義足だから」とか「パラリンピック選手だから」という気持ちは全くありません。
(第5回につづく)
<中西麻耶(なかにし・まや)プロフィール>
1985年6月3日、大分県生まれ。高校時代はソフトテニスでインターハイに出場。卒業後、08年大分国体を目指したが、仕事中の事故でひざ下を切断した。07年から陸上を始め、翌年の北京パラリンピックでは100メートル6位、200メートル4位入賞を果たした。現在は練習拠点を米国に移し、ロサンゼルス五輪・三段跳金メダリストのアル・ジョイナーから幅跳びの指導を受け、世界記録(5m09)更新を目指している。世界ランキングは100メートル(13秒84)8位、200メートル(28秒52)6位、幅跳び(4m96)4位(いずれも日本記録)(2011年5月現在)。
(構成・斎藤寿子)
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