二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.07.14
第2回 米国での武者修行が礎に
~"バスケバカ"の人生~(2/4)
二宮: 及川さんが留学をしたのは何歳の時ですか?
及川: 22歳です。千葉ホークスに入って1年経った頃に、米国に行きました。最初はシアトルのNBAチーム、シアトル・スーパーソニックスが所有している車椅子バスケットボールチームに入ったんです。ただ、このチームは僕がいた頃、一度も勝った経験がないというような感じでしたね。1年後にはカリフォルニアのチームに移籍しました。
二宮: カリフォルニアのチームは強かったんでしょうか?
及川: はい。フレズノレッドローラーズというチームでスーパースターが集結した全米No.1の強豪でした。
二宮: それはすごい!
及川: 僕のようなレベルの選手がそこのチームに行ったって、たいしたことはできないことはわかっていました。でも、スター選手からいろんなことを教わって学ぶことも多かったですし、本当に車椅子バスケットボールをエンジョイすることができました。その時に、イリノイ大学で5日間の車椅子バスケットボールキャンプをやるというので、僕も参加したんです。それが今、僕が開催している「Jキャンプ」の基礎になっています。
二宮: どんな内容のことをやるんですか?
及川: 全米中から100人ほどの車椅子バスケのプレイヤーが集まって、1対1から5対5までの車椅子バスケットの科学的なスキルを教わるんです。初心者で同じ仲間とキャンプを楽しみたいという人もいれば、車椅子バスケットのスキルを上げたいという人まで、さまざまな人がいましたね。
二宮: それは今まで日本にはなかった?
及川: そうですね。日本にはそもそも車椅子バスケットのベーシックなメソッドがなかったんです。先輩たちは「見て覚えろ!」というだけでしたから(笑)。僕のプレーはイリノイ大学で教わったことが原点となっています。
車椅子バスケの科学的メソッド
二宮: 米国の中でもイリノイ大学は先進的なのでしょうね。
及川: そうだと思いますね。イリノイ大学には、車椅子バスケットのコーチング学を確立させ、シドニー、アテネとパラリンピック2大会連続でカナダ代表を金メダルに導いたマイク・フログリーというカナダ人のコーチがいるんです。当時から米国ではイリノイ大学で彼の指導を受けた選手がナショナルチームにいくという流れができていましたね。
二宮: 日本の指導との一番の違いは?
及川: 日本では健常者でバスケット経験者が指導者になることが多いんです。しかし、健常者のバスケットと車椅子バスケットは似ているようで違う部分もあるので、結構指導するのは難しいんですよ。例えば、フットワークと車椅子のチェアワークとでは動き方が違います。健常者は左右に動くことができますが、車椅子では左右の動作はできません。ですから、「ここはサイドステップで」なんて言われても、車椅子の選手には通用しないんです。
二宮: なるほど、確かにそうですね。バスケットの戦術や技術をそのまま教えてもダメだと。バスケットとは異なる、車椅子バスケットならではの部分もきちんと教えないといけないわけですね。
及川: そうなんです。「これくらいだったら大丈夫だろう」というような曖昧に指導するのが一番よくありません。きちんと車椅子バスケットの戦術を科学的に説明していく必要があるんです。それを世界的に先駆けて行なったのがイリノイ大学なんです。
(第3回につづく)
<及川晋平(おいかわ・しんぺい)プロフィール>
1971年4月20日、千葉県生まれ。高校1年の冬、骨肉腫で右足を切断。1993年に千葉ホークスに入り、車椅子バスケットボールを始める。翌年、米国に留学。シアトルスーパーソニックス、フレズノレッドローラーズでプレーする。2000年にはシドニーパラリンピックに出場した。02年、車椅子バスケットボールチーム「NO EXCUSE」を立ち上げ、現在はコーチングプレーヤーとして活躍。広州2010アジアパラ競技大会では男子車椅子バスケットボール日本代表アシスタントコーチを務めた。01年から車椅子バスケットボールキャンプを主催。現在はNPO法人「Jキャンプ」で若手育成にも注力している。PwC(プライスウォーターハウスクーパース)のメンバーファームであるあらた監査法人に勤務。
(構成・斎藤寿子)
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