二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.09.08
第2回 スポーツ義足づくりの第一歩
~義肢装具士が語るスポーツのススメ~(2/5)
二宮: 臼井さんは日本で初めてスポーツ義足をつくられたわけですが、きっかけは何だったのでしょう?
臼井: スポーツ義足をつくり始めたのは、もう25年くらい前になるのですが、当時日本では義足で走る人は皆無だったんです。特に大腿(膝上)切断の人たちにとって走るなんてことは想像もできなかったと思います。ところが、米国の学会で出された雑誌なんかを読んでいると、義足でスポーツをやっている人たちが載っているんですよ。それを見て、自分でもつくってみようかなと思ったんです。まずは見よう見まねでしたね。そこから試行錯誤しながら自分なりに改良していったんです。
二宮: 当時は障害者がスポーツをするということ自体が、日本にはあまり馴染みがなかったんでしょうね。
臼井: そうですね。それにあまり丈夫な素材がなかったので、激しく動いて大きな負担をかけると義足が壊れてしまったんです。そういうこともあって、日本では走っている人はいませんでした。
二宮: 1991年には切断者スポーツクラブ「ヘルス・エンジェルス」を立ち上げました。
臼井: 私が担当している義足の人に「走ってみない?」と声をかけたのが始まりでしたね。最初はみんな怖がって、なかなか集まらなかったんですよ。
二宮: ひとえにスポーツ義足といっても、その人の運動能力や身体にあったものをつくらなければなりません。一つ一つ特注になるわけですね。
臼井: はい。それに義足は一度つくってしまえば、ずっとそのまま使えるわけではないんです。同じ選手でも筋力トレーニングをしたりすると、筋肉のつき方が違ってきますので、途中で切断部分を入れるソケットの角度をかえたり、長さをかえたりして調整していきます。特に最初が大変です。それまでスポーツをしていなかった足は筋力が衰えていますから、細いんですね。ところが、いざ競技を始めるとグンと筋肉がつきます。ですから、最初が一番調整の手間がかかるんです。
やりがいあるサポート役
二宮: 「ヘルス・エンジェルス」からは5人のパラリンピアンが誕生しています。パラリンピックのようなトップレベルの大会になると、さらに細かい調整が必要になってくるんでしょうね。
臼井: そうですね。パラリンピックレベルになると、選手の競技への思い入れが強くなりますから、その分、義足の調整も細かくなります。自分のパフォーマンスを最大限に引き出してくれる義足を求めてきますからね。
二宮: 臼井さんは大会にも帯同されるんですか?
臼井: 日本選手権やジャパンパラリンピックなど、国内の主要大会には必ず行きます。現地で選手たちの要望をきいて調整するんです。
二宮: 日本人選手のパフォーマンスは、臼井さんの腕にかかっていると言っても過言ではない。
臼井: いえいえ、そんなことはありません。結果は選手たちの普段の努力の賜。そのサポートが少しでもできればと思っています。
(第3回につづく)
<臼井二美男(うすい・ふみお)プロフィール>
1955年、群馬県生まれ。義肢研究員・義肢装具士。28歳で財団法人鉄道弘済会「義肢装具サポートセンター」に就職し、義肢装具士としての道を歩む。1991年、切断者スポーツクラブ「ヘルス・エンジェルス」を設立。月に一度、東京都障害者総合スポーツセンター(北区)で練習会を開催し、「義足で走る」ことを指導している。鈴木徹(走り高跳び)や佐藤真海(走り幅跳び)、中西麻耶(走り幅跳び・短距離)といったパラリンピアンに競技のきっかけを与えた人物でもある。
(構成・斎藤寿子)
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