二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2011.11.17
第3回 果たせなかった"ママで金"
~進化し続けるパラリンピアン~(3/4)
二宮: 2004年のアテネパラリンピックの翌年、コーチの高橋慶樹さんとご結婚。06年には男の子を出産されました。子育てをしながらの競技生活はいかがでしょう?
土田: 子どもが生まれてからは、無我夢中でやってきたという感じです(笑)。出産後、北京パラリンピックを目指して競技に復帰した当初は、練習の環境をつくるのに苦労しましたね。例えば普段は保育園に預けているのですが、子どもが体調を崩した時にどうしたらいいか、というのも大きな問題でした。そこで保育園の先生から紹介していただいたのが、その方の自宅で保育をしてくれる「保育ママ制度」。保育ママさんのほとんどが保育士や幼稚園教諭などの資格をもっている方なんです。
二宮: 土田さんのように競技をしながら子育てをしている女性アスリートにとっては、ありがたい制度ですね。
土田: 私たちにとっては、本当にありがたかったですね。しかも、紹介していただいた保育ママさんが本当にいい方で、初めてご挨拶に伺った時に「精一杯、協力をさせていただきます」という温かい言葉をかけてもらったんです。その方がいなかったら、私は北京パラリンピックに出ることはできなかったと思います。
二宮: 出産後、身体面での変化はありましたか?
土田: これは出産と直接結びつくかどうかはわからないのですが、出産前よりも持久力が上がりました。それまで耐えられなかった距離にも、体力がもつようになったんです。出産とマラソンとでは、体への負荷のかかり方が全く違うので、はっきりしたことは言えませんが、出産を経験したことで、私自身は身体的な強さを手に入れることができたのかなと思っています。
ロンドンは6年かけての集大成
二宮: 北京での4度目のパラリンピックは、5000メートル決勝のレース中、接触事故に巻き込まれて転倒。その時に負ったケガで、4日後に行なわれた再レースには出場することができませんでした。そして、マラソンも棄権せざるを得ませんでした。不完全燃焼の思いが残ったのでは?
土田: もう、泣きましたね。結果どうのという前に、とにかくゴールしていないわけですから。マラソンなんか、スタートラインにすら立てなかった......。行き場のない気持ちを、どう抑えていいのかわかりませんでした。
二宮: その悔しさが、ロンドンを目指すきっかけになったのでしょうか?
土田: そうですね。たとえメダルが獲れなかったとしても、北京で自分の力を出し切っていたら、ロンドンは目指していなかったかもしれません。
二宮: では、ロンドンが競技生活の集大成になると?
土田: その時になってみなければわかりませんが、北京の時は「これが最後だ」という気持ちで出産後の2年間、準備をしてきたんです。ですから正直、北京後は引退も考えました。でも、やっぱり「このままでは終われない」と思ったんですよね。今は北京までの2年間と合わせて6年かけてロンドンを目指しているという感じ。ロンドンは集大成として必ず結果を出したいと思っています。
(第4回につづく)
<土田和歌子(つちだ・わかこ)プロフィール>
1974年10月15日、東京都生まれ。高校2年時に交通事故で脊髄損傷を負い、車椅子生活となる。翌年の秋にアイススレッジスピードスケートの講習会に参加し、約3カ月後のリレハンメルパラリンピック(1994年)に出場。4年後の長野大会では1500メートル、1000メートルで金メダルに輝き、100メートル、500メートルでは銀メダルを獲得した。その後は陸上競技に転向し、2000年シドニー大会では車いすマラソンで銅メダル、04年アテネ大会では5000メートルで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得した。07年にはボストンマラソンで日本人では初めて優勝する。08年北京大会は5000メートルのレース中に転倒し、再レースを断念。マラソンも棄権した。今年4月のボストンマラソンでは5連覇を達成。大分国際車いすマラソン大会では6度の優勝を誇る。サノフィ・アベンティス株式会社所属。
(構成・斎藤寿子)
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