二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2012.05.31
第4回 ロンドンで目指すは金メダル!
~日本人初のプロ車椅子ランナー~(4/4)
二宮: 4年前の北京では、パラリンピック3度目にして初めてメダルなしに終わりました。会場となった北京国家体育場はどんなトラックでしたか?
廣道: 感触的には、選手によってまちまちでしたね。「めちゃくちゃ硬くて、よく車椅子が走る」という選手もいれば、「トラックの表面のゴムが車椅子のタイヤに貼りつき、抵抗がかかって走りにくい」という選手もいました。僕自身は、あまり硬くて転がるトラックだとは思いませんでした。ただ、タイム自体は800メートルでは自己ベストが出たんです、しかも、決勝8人全員が当時の世界記録を上回っていたんです。ですから、実際にはやはりトラックが硬くてスピードに乗っていけたんだと思います。
二宮: 一番、自信のあった800メートルは8位入賞という結果でした。決勝は、どんなレース展開だったのでしょう?
廣道: スタートから必死に食らいついていって、8人中、だいたい5、6番手でしたね。最後に差しに行こうと思って、アウトコースに出たのですが、差し切れず、逆に後続の選手たちにかわされてしまいました。ラストの直線で加速をかけられるかなと思ったのですが、もうその時には前がダンゴ状態になっていて、抜くところがなかったんです。そのダンゴ状態の前の何人かが抜け出していました。
二宮: 当然、3大会連続でメダルを目指していたでしょうから、悔しさも相当だったのでは?
廣道: シドニーでは運よく銀が獲れましたし、アテネでもなんとか銅が獲れました。もちろん、メダルを獲ることはそう簡単ではないことはわかってはいますが、やはり自分の中では「パラリンピック」=「メダルを獲って帰ってくるもの」というふうに思っていたんです。ですから、北京でメダルを逃した時には「どういう顔をして帰ればいいんだろう......」という気持ちがありましたね。
二宮: プラスに考えれば、北京でメダルを逃したことで、改めてメダルの価値を感じたのではないでしょうか?
廣道: それはありますね。銀、銅と獲って、メダルを逃した悔しさも味わった。後は金メダルだけが経験ないという状況なので、ロンドンでは絶対に獲るつもりです!
"スーパースター"への憧れ
二宮: 廣道さんはよく「自分がスーパースターにならないとあかん!」と言っていますよね。そう思ったきっかけは?
廣道: 僕が競技を始めた頃は、海外のレースに出る選手はほとんどいませんでした。強くなるためにどうしていたかというと、海外のレースのビデオを教材にして、フォームのチェックをしたり、駆け引きの勉強をしたりしていたんです。それで、僕が観たビデオの中に当時の世界記録保持者ジム・クナーブというアメリカ人選手がいたんですね。気になって調べてみたら、彼は当時、ボストンマラソンで5回優勝していた。それで、その年のボストンマラソンを観に行ったんです。案の定、彼が出場していて、レース後に勇気を振り絞って話しかけたんです。その時、僕は全くの無名選手で、しかも片言の英語しか話せませんでした。そんな見ず知らずの日本人の僕に、彼は名刺を差し出して、「英語が話せるようになったら、オレのところに練習に来いよ」って言ってくれたんです。
二宮: 実際に行かれたんですか?
廣道: はい。帰国してすぐに英会話を習いに行って、少し話せるようになったら、彼の元を訪れたんです。そしたら、本当に一緒に練習をしてくれました。当時、彼は世界チャンピオンでしたから、どうしたら彼よりも速くなれるのか、彼から盗めるものがあればと、みんな躍起になっていました。ところが、本人は隠そうともせず、自ら「オレはこういうふうにトレーニングしているよ」とアドバイスしてくれるんです。それを見て、かっこいいなと思いましたね。
二宮: 懐の広さを感じますね。
廣道: しかも、アメリカに行って、初めて知ったのですが、ジム・クナーブはプロのランナーとして活動していました。「今日はスポンサーに挨拶に行くから、一緒に行こう」とか、「今日は撮影が入っているんだ」とか言うわけです。テレビドラマにも出演したりしていましたね。練習環境も最高でしたよ。自宅がカリフォルニアのロングビーチにあったのですが、目の前には海が広がっていて、練習は近くのハイウェイで行なうんです。午前中の練習が終わったら、ビーチ沿いでランチを食べて、自宅に戻って休憩をして、午後にまた練習するんです。そして夜はバーに行って飲んで......。
二宮: そういう姿を目の当たりにしたら、間違いなく憧れますよね。
廣道: そうなんです。「えぇ! 車椅子でもプロになって、レースで活躍すれば、こんな生活ができるんや!」と思いましたよ。驚いている僕に彼がこう言ってくれました。「キミも日本でプロになれるはずだよ。アメリカにだって、もともとプロの世界なんてなかったんだ。それをオレたちが、企業に声をかけて、大会のスポンサーになってもらった。勝てば賞金がもらえるし、継続して1年間、そのスポンサーが支援してくれるというふうにね。そういうスポンサーを増やしていって、今じゃ、アメリカのトップクラスの選手はみんなプロでやっているんだ」と。それが僕がプロになろうと思ったきっかけでしたね。
二宮: ジム・クナーブとの出会いが、廣道さんの人生を大きく変えたわけですね。
廣道: はい。アメリカには障害者にもこんなかっこいいスーパースターがいるんや、と。一方、日本を見渡したら、誰もいないわけです。それで、「よし、オレがジム・クナープのような人間になろう!」と。未だに彼のようなスーパースターにはなれていませんけどね(笑)。
二宮: プロで立派に活躍されているわけですから、子どもたちに夢を与えている存在であることは確かです。それこそパラリンピックで金メダルを獲れば、さらに夢は広がっていくことでしょう。
廣道: そうですね。ロンドンでは金メダルを狙っていきます!
(おわり)
<廣道純(ひろみち・じゅん)プロフィール>
1973年12月21日、大阪府生まれ。高校1年の時、バイク事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となる。17歳から車椅子レースに出場し、パラリンピックには2000年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会に出場。800メートルで銀メダル(シドニー)、銅メダル(アテネ)を獲得した。04年3月より日本人初のプロ車椅子ランナーとなる。06年からは「大分陸上」を主催し、日本障害者スポーツのレベルアップを図るとともに、裾野を広げている。400メートル(50秒21)、800メートル(1分36秒85)の日本記録保持者。プーマ ジャパン株式会社所属。
廣道純オフィシャルサイト http://www.jhiromichi.com/
(構成・斎藤寿子)
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