二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2015.06.11
第2回 大歓声を体感したロンドンパラリンピック
~義足のスプリンターが駆け抜けるリオ、東京への道~(2/4)
二宮:高桑選手は、3年前のロンドンパラリンピックで3種目(100メートル、200メートル、走り幅跳び)に出場し、100メートルと200メートルでは、いずれも7位入賞を果たしました。4年に1度の大舞台を経験したことによって、次のリオデジャネイロパラリンピックに"出たい"という思いが増しましたか?
高桑:そうですね。ロンドンは、ビギナーズラックというか、たまたま運が良くて、出られたという印象が強いんです。ロンドンが終わった直後によく言っていたのですが、次のリオに関しては、リベンジのつもりでいます。しっかり4年間かけて、準備していく気持ちでやってきました。それがもう1年後かと思うと、感慨深いですね(笑)。
伊藤:2種目で入賞を果たしていても、リベンジということは、悔しさの方が大きい?
高桑:そうですね。充実感はすごくあったんですが、終わってみると、"もうちょっといけたんじゃないかな"という思いもありました。リオに出場できるのであれば、"今度こそは"という気持ちが強いです。
二宮:ロンドンは、高桑選手自身初めてのパラリンピックでした。そこで得たものとか、初めて味わったことはなんでしょう?
高桑:まず日本を代表してパラリンピックに行かせてもらう責任を感じることができました。それと陸上競技は幸運な競技で、なんとメイン会場を使えるんです(笑)。8万人も入るスタジアムで、走ることができました。あれだけのお客さんの前で走るという経験は初めてです。純粋にパラリンピックを楽しみに来てくださっているのが、スタートラインに立っていてもわかる。これはとても貴重な経験で、"もう一度、ここに立ちたい"という気持ちになりましたね。
二宮:8万人の会場で走るなんて、普通の人はなかなか経験できることじゃありませんからね。
高桑:そうですね。歓声とは、こういうことを言うんだなと感じました。
伊藤:走っている時に歓声は聞こえましたか?
高桑:私はどちらかというと走っている時は集中していて、周りの声が聞こえないタイプなんです。なのでコールルームからトラックに出てきた時と、フィニッシュラインを越えた瞬間ですね。そこでの大きな歓声は、今でも覚えています。
【進みつつあるサポート体制】
二宮:環境面についてもお伺いしたいんですが、ロンドンはパラリンピックが成功した大会だと言われています。一方でロンドンの街並みは、石畳が多く、障がいがある方にとっては決して優しいとはいえなかったとも聞きました。
高桑:確かに石畳ですし、基本的に移動は地下鉄です。決してバリアフリー面で進んでいるかと言えば、そうではありませんでした。私は義足なのでそこまで不便は感じなかったんですが、車いすの選手は移動が大変だったかもしれません。 ただ、いつでも誰かが助けてくれるような雰囲気があるんです。困ったことがあっても、"なんとかなるんじゃないかな"というふうには思いましたね。
二宮:ハード面ではなく、心のバリアフリーが整っていたんですね。選手村では、不便を感じることはなかったですか?
高桑:私自身は特別不自由な点は感じなかったですね。ただ、ロンドンは建物が複雑な構造をしていたので、ブラインドの選手が迷ってしまうとか、そういうことはあったみたいです。
伊藤:ロンドンオリンピックで使用された日本代表選手の支援拠点となる「マルチサポートハウス」は、パラリンピックでは使うことができなかったと、お聞きしました。
高桑:その話を聞いた時に、私も非常に悲しかったです。ただ、昨年のインチョンアジアパラ競技大会では、設置されていたので、助かった選手も多かったみたいです。徐々にパラリンピックに対するサポート体制も進んできているんだなと思いました。選手間でも「今度のアジアパラもマルチサポートハウスを畳まれちゃったら、どうしよう」という話をしていたんですが、そうではなかった。オリンピックとパラリンピックで、かなり連携はとれてきているような気がするので、この先に向けて安心かなと思っています。
伊藤:インチョンのマルチサポートハウスで助かった面はありますか?
高桑:私が一番嬉しかったのは、日本食の提供ですね。ランチボックスに、おにぎりを作ってくれたのが、すごくありがたかったです。
二宮:おにぎりは日本人には嬉しいですよね。精神的にもずいぶんリラックスできたんじゃないでしょうか。
高桑:そうですね。おにぎりって、やはり食べやすい。まさか試合の当日や、あの寒い中で、梅干しのおにぎりが食べられるとは思いませんでした(笑)。マルチサポートハウスの存在は、とても助かりましたね。
(第3回につづく)
<高桑早生(たかくわ・さき)>
1992年5月26日、埼玉県生まれ。小学6年の冬に骨肉腫を発症し、中学1年の6月に左足ヒザ下を切断した。高校から陸上部に入り、2010年の広州アジアパラ競技大会では100メートルで銀メダル、走り幅跳びで5位入賞。高校卒業後の11年からは慶應義塾大学体育会競走部に所属する。12年ロンドンパラリンピックでは100メートル、200メートルともに7位入賞を果たす。14年7月、100メートルで日本新記録となる13秒69をマークすると、10月のインチョンアジアパラ競技大会では100メートルで銅メダルを獲得した。今春からエイベックス・グループ・ホールディングス(株)に入社。
(構成・杉浦泰介)