二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2015.08.20
第3回 車いすテニスとの出合い
~"現状打破"掲げる車いすテニスプレーヤー~(3/4)
伊藤:眞田選手は19歳の時に交通事故で、ケガを負われたとお聞きしました。
眞田:バイクを運転中に車と正面衝突をしてしまったんです。右足の大腿の2分の1未満を切断しました。
伊藤:そこから車いすテニスとは、どのように出合われたんですか?
眞田:義足を作るためリハビリをしていた病院の体育館で、車いすバスケを見学させてもらう機会があったんですね。その時に、「車いすバスケ、興味あるの?」と声をかけてもらいました。そこで「バスケはやったことはないんですが、テニスはやっていました」と話をしたところ、たまたまその方が車いすテニス協会に所属されている方だったんです。すぐに紹介してもらって、車いすテニスをやらせていただいたというのが一番初めのきっかけですね。
伊藤:元々、テニスをされていたんですね。
眞田:はい。ソフトテニスを中学生の頃からやっていました。家には卓球台があって、姉や母が卓球をやっていましたね。父は硬式テニスをやっていたので、ラケット競技には縁がありました。
伊藤:ラケット家族だったんですね(笑)。
眞田:でも紹介されるまでは車いすテニスがあることも、知らなかったんです。
二宮:見学したバスケットボールよりは、テニスが向いているんじゃないかと?
眞田:そうですね。バスケは健常の時、あまり得意じゃなかったんです(笑)。ただスポーツ用の車いすを見たのも、その時が初めてでしたし、競技を見たことも初めてだった。最初に"車いす競技、面白そうだな"と思いましたね。
【車いすを"足"にするのが課題】
二宮:テニスは下地があったとしても車いすは19歳から。車いすテニスは、僕も体験させてもらったことがあるんですが、ラケットでボールをとらえる前に、まず車いすを操作するのが、難しい。操作に慣れるのに時間がかかったんじゃないですか?
眞田:そうですね。それは今でも課題なんです。日頃は、義足を履いて歩いているものですから、車いすは競技をする時しか乗らない。さらに途中障がいということもあるので、生まれつき、または小さい頃から車いすに乗っている方に比べたら、まだまだ車いすが自分の"足"にはなっているとは言えないんです。
二宮:そこまで一体感を持つことができていないと。
眞田:はい、まだ操作するという感覚なんですよね。たとえば歩いている時に、左に向こうと思ったら意識しないでも、自然と左に向けますよね。これを車いすでやろうとしたら、左手で左の車輪を引いて、右手で右の車輪を押し出すと考えて動いているんです。「どちらがわの手を動かす」などと意識せずに、身体全体を使って自然と操作できるというのが、車いすに慣れている人だと思うんです。
二宮:その域に到達するには時間がかかりそうですね。
眞田:そうですね。一応、車いすに乗るようになってからは10年が経つんです。昔に比べたら、ある程度操作できるようになりましたが、まだまだですね。
伊藤:ただ乗りこなすだけでなくて、それでプレーをしなきゃいけないわけですからね。チェアワークは車いすテニスの見どころというか魅力のひとつだと思います。
眞田:車いすテニスは、ボールとの距離感が一番大切なんです。ボールに早く追いつき過ぎると、打つ前に車いすを止めてしまうことになるので、勢いをボールに伝えることはできません。車いすのスピードも打ち返すボールの威力につながりますので、距離感を見ながら速度をコントロールしなければなりません。
二宮:打つ前に勝負は決まっている、ということですか。ポジション取りも大事なんですね。
眞田:ええ。今はコーチからも、車いすの操作にどの筋肉を使うかなどの指導を受けています。
(第4回につづく)
<眞田卓(さなだ・たかし)>
1985年6月8日、栃木県生まれ。埼玉トヨペット所属。中学時代、ソフトテニス部に所属した。19歳の時にバイク事故で右ヒザ関節の下を切断。リハビリ時に車いすテニスの存在を知り、退院後に始める。2010年、ランキング上位8人に出場資格が与えられる日本マスターズに出場。12年にはロンドンパラリンピックに出場を果たし、シングルスはベスト16、ダブルスではベスト8の成績を収めた。14年のインチョンアジアパラ競技大会ではシングルスで銀メダルを獲得した。7月20日現在、世界ランキングはシングルス8位、ダブルス10位。
(構成・杉浦泰介)