二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.02.10
第2回 ブラインドサッカーとの出会い
~障がいを超えた絆で夢を追う~(2/4)
二宮:ブラインドサッカーは多くのメディアで取り上げられる機会が多くなってきました。2014年に日本で開催された世界選手権では、入場者は合計6000人を超えたそうですね。たくさんの観客が詰めかけた同大会のキャッチコピーは「見えない。そんだけ」。私はすごく良いコピーだなと思いました。とても前向きな印象を受けますね。
落合:私たち自身が見えないことは事実です。ただ、それ以外の部分では心も元気ですし、足も元気ですからね。本当に「そんだけ」。まさしくその通りだと思います。
二宮:落合選手が目の病気にかかったのはいつ頃でしょうか。
落合:進行性の網膜色素変性症という病気なのですが、発症したのは10歳の頃ですね。夜暗くなると、皆さんの目は順応するじゃないですか。でも私の場合は「夜盲」と言って、夜は目が順応せず、真っ暗なままなんです。そのような症状から始まって、徐々に視力が低下し、視野も狭まっていきました。
二宮:そこから、どういったきっかけで競技をはじめたのでしょう?
落合:2002年の末に知人からブラインドサッカーの存在を教えてもらったんです。元々サッカーが好きで、Jリーグは、見たりというか聞いていました。最初は、"ブラインドサッカーって、どうやってやるんだろう"という好奇心で練習会に参加しましたね。
伊藤:小さい頃からサッカーをやっていらしたんですよね。
落合:そうですね。サッカー漫画の『キャプテン翼』が好きで、(大空)翼くんや日向(小次郎)くんに憧れていたんですが、残念ながらなれませんでした(笑)。
二宮:ブラインドサッカーをやる上で、それまでのサッカー経験はプラスになっていますか?
落合:はい。今はその下地があってすごく良かったと思っています。でも、ブラインドサッカーの最初の練習では、自分が見えていた頃のプレースタイルにとらわれていました。それができない歯がゆさで、正直な感想をいうと、つまらなかったです(笑)。ドリブルしていてもボールをうまくキープできない。シュートをしようとしても空振りしてしまう。相手からボールも取れませんでした。
【生きている証を残したかった】
二宮:その後、すぐに実力を伸ばしていき、2003年には日本代表に選ばれるまでになりました。ブラインドサッカーとの出会いは、落合選手にとって大きかった?
落合:自分の生きている証を残したくて、最初の頃はブラインドサッカーをしていましたね。国際大会とかでゴールを奪えば、記録として名前が残るじゃないですか。今は、そういう考えはあまりないですが、始めたばかりの頃は思っていましたね。実は、競技を始めるまでは、自分自身の障がいを受け入れられなかったんです。ブラインドサッカーをして、日本代表になって、やっと自分を受け入れられた感じですね。
伊藤:そう思えるようになったきっかけは?
落合:街なかを歩いていると、視覚障がい者に関しては、どうしても「大変」「かわいそう」と思われてしまうことが多いんですよね。でも、ブラインドサッカーをしている時は、「スゴいね」と言われるんですよ。「見えないで、なんでそんなことができるの?」とも。
伊藤:私も思います(笑)。
落合:同じ自分なのに、街なかとピッチの中では見られ方が真逆なんです。
二宮:誇らしい自分がピッチの上にはいるわけですね。
落合:はい。街なかで「大変ですね」と思われたとしても、自分を受け入れられるようになった今は、"大変だけど、実は私、サッカーできるんですよ。走れるんですよ"と心の中で思えるようになりました。そう思えたら、気が楽になりました。そこから私はだいぶ変わりましたね。
(第3回につづく)
<落合啓士(おちあい・ひろし)>
1977年8月2日、神奈川県出身。10歳の時に、徐々に視力が落ちる進行性の難病である網膜色素変性症を発症する。25歳でブラインドサッカーを始めると、翌年に日本代表に選出され、2006年から3大会連続で世界選手権に出場。11年から日本代表の主将を務めた。10年に神奈川県唯一のブラインドサッカーチーム「buen cambio yokohama」設立。チームの代表を務める傍ら、自身も同チームに所属するプレーヤーとして活躍する。ポジションはFW。身長171センチ、体重71キロ。
(構成・杉浦泰介)