二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.03.24
第3回 「パラスポーツ」という呼称
~スポーツ庁初代長官が目指す共生社会~(3/4)
伊藤:最近は「障がい者スポーツ」ではなく、「パラスポーツ」という言葉がだんだん広がってきていると感じます。国際パラリンピック委員会(IPC)ではパラスポーツをパラリンピックだけではなく、障がい者がプレーするスポーツ全般を指して「パラスポーツ」と呼ぶと明示しているんです。それで私たちも「パラスポーツ」という言葉を使い始めました。使ってみると短くて言いやすいし、カッコいい感じがするんです。
鈴木:そういう提案をお待ちしていました。私も、以前車いすバスケットボールの試合を生で観戦して競技性の高さに驚き、「障がい者スポーツ」という呼称を使うのはおかしいのではないかとも思いました。障がいのある方とお話をした際に「新しい呼び方を考えて下さい」というお話をしたこともあります。現在、そういう流れになっているのであれば、私たちも「パラスポーツ」を呼称として全国的に使っていくことは大賛成です。
二宮:そのほうが長官もピッタリきますか?
鈴木:皆さんがそういうことであれば、もちろんそれは賛同いたします。現場で関わる皆さんで決めることが一番良いと思います。
二宮:長官が賛成となれば非常に追い風になりますよね。
伊藤:「障がい者スポーツ」という呼称は、障がいのある人のスポーツと健常の人のスポーツを別のものとして表現している感じがします。でもそれを「パラスポーツ」と言い換えるだけで、全体的なイメージに変わる気がします。IPCもパラリンピック競技だけではなく、障がいのある人がするスポーツ全体をパラレル(parallel)、もうひとつのスポーツということで「パラスポーツ」と出しているんですね。
鈴木:言葉も生き物ですからね。社会情勢も変わっていきますし、どんどんそうやって名称も変わって当然かなと思いますね。
二宮:本当にスポーツというものは範囲も裾野も広い。例えばこのパラスポーツの分野でも聴覚障がい者や知的障がい者のスポーツもありますので、長官もいろいろと目配り、気配りをしてお仕事をされていると思います。とても大変だと思いますが、その一方で発見も多いのではないのかなと。
鈴木:おっしゃる通りです。スポーツが関わる範囲がこんなにも広いということを最近本当に実感しますね。もちろん競技力の向上もそうなのですが、健康増進や国際交流もできます。地域や経済の発展にも寄与できるということで、本当に幅が広いと思います。大変なところもありますが、やり甲斐を感じています。発見というお話がありましたが、日々ありがたさを感じつつスポーツの幅広さや奥深さを実感していますね。
【パラアスリートにおける用具への議論】
二宮:障がい者陸上のオスカー・ピストリウス(南アフリカ)選手がロンドンオリンピックの舞台に立ったように、最近は健常者の競技会にパラスポーツ選手が出場することもあります。
鈴木:中には健常者を超えるほどの記録を出す可能性もあります。世界的にも、用具が必要以上に競技力を飛躍させているのではないかという議論や、健常者の大会への出場を許すべきかどうかという議論にも発展していますよね。これからは今までなかったような問題も噴出してくるかもしれません。
二宮:既に健常者の記録を超えるのではないかという段階まできている種目もありますよね。
鈴木:健常者の記録を超えないまでは全くウェルカムだったのに、超えるようになると本当にコントラバーシャル(議論の余地のある)になってきてしまう。
伊藤:健常者を抑えて国際大会で優勝した義足の幅跳び選手マルクス・レーム(ドイツ)選手は「オリンピックに出場したい」と言っていますよね。私は北京オリンピックの時に話題になった高速水着を思い出しました。次々と記録が出て、その後禁止になった。私は義足の選手がオリンピックに出てもいいんじゃないかなと思うんです。それで「やっぱり義足の選手ばかりがすごい」ということになったら規則を変更すればいい。最初からダメだと言わないで、一旦一緒にやってみるのはどうかなと思うんですが......。
鈴木:私の方からは何とも申し上げられませんが、これはその都度議論をしていくべきかなと思います。話し合うことが前に進んでいることに後世から見ればなるわけですよね。出てきた問題に対して真剣にいろいろ考えることがまず大事だと思いますね。
(第4回につづく)
<鈴木大地(すずき・だいち)>
1967年3月10日、千葉県生まれ。小学2年で水泳を始め、高校進学後に個人メドレーから背泳ぎに転向した。84年ロサンゼルス五輪に出場。88年ソウル五輪では100メートル背泳ぎで金メダルを獲得。日本競泳界16年ぶりの快挙だった。現役引退後は米国に留学し、大学で客員研究員やコーチを務めるなど、活動の幅を広げた。帰国後は、2000年から母校の順天堂大学に勤務し、水泳部監督に就任。07年には医学博士の学位を取得。09年から日本水泳連盟理事を務め、13年に同連盟の会長となった。14年に2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会の委員長を務めた後、15年に文部科学省の外局として発足したスポーツ庁の初代長官に就任した。
(構成・杉浦泰介)