二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.05.12
第2回 美術とアーチェリーの親和性
~目標を見据え、無心で射抜く~(2/4)
二宮:アーチェリーを始めてから20年目を迎えるそうですが、子どものころはスポーツが好きではなかったとお聞きしました。
平澤:そうなんです。私には手と足に先天性の障がいがあって、絵を描いたり本を読むなど家の中でひとりで遊ぶことが好きだったんです。私にとってスポーツは"できないからしない"ではなくて"しなくていい"ものでした。"やりたい"と思う気持ちすらなかったというのが正直なところです。
二宮:そこから心境に変化が生じたのはなぜでしょう?
平澤:私は22歳から車いすを使うようになりました。それまでは松葉杖などを使って歩いていたのですが、体が大きくになるにつれて足が体重を支えきれなくなってきたんです。車いす生活に変わることで、一般的には行動範囲が狭くなったり運動量が少なくなるといったケースがあります。ただ私の場合は足の負担がなくなったことで体調も良くなり、より動けるようになりました。車の免許も取得して行動範囲も大きく広がり、まさしく世界が広がったんです。それでいろいろなものに挑戦してみようという気持ちになりました。そんな時にアーチェリーと出会ったんです。
伊藤:どなたかにアーチェリーを勧められたんですか?
平澤:姉が障がい者スポーツセンターに誘ってくれて、そこで最初に車いすテニスをやってみたんです。でも、元々運動した経験がほとんどなかったのでまるっきりできなかった(笑)。それで全然楽しめなかったんです。少しやっただけでも疲れてしまって、「帰りたい」と言っていました。その時にセンターの人に「せっかくだからいろいろ見ていきますか?」と施設を一通り案内してくれたんです。その中にアーチェリー場があったんです。元々、弓道の様式美に"カッコいいな"と憧れていたので、"弓道ではないけど、アーチェリーでもいいか"と思って始めました。今考えればアーチェリーに対して失礼なのですが(笑)。でもやってみたらすごく面白くて、気が付くとのめり込んでいました。
伊藤:最初からセンスを見込まれていたとお聞きしました。
平澤:はじめて体験したときに「こんなに上手い人はいない」「1回目からこんなに的に当てる人いない」と、すごく褒めていただいたんです。それを呑気に真に受けていました。今、考えると標準レベルだったなと思います。
伊藤:でも、その言葉がなかったらアーチェリーをやっていなかったかもしれませんね。
平澤:ええ。褒められるって大事なことだなと思いましたね(笑)。
【求められるのは再現力】
二宮:絵を描くことが好きだとおっしゃっていましたが、自分と向き合う作業が得意なのでしょうか?
平澤:はい。それもすごく大きかったです。私は美術大学に行って絵を描いていましたから、アーチェリーの「私と的」という関係が絵画でいう「私とキャンバス」にすごく近いと感じました。黙々と練習して、私だけの世界に入れる。それがすごく心地よかったんです。
二宮:美術とアーチェリーには親和性があったと。
平澤:そうですね。たとえば、デッサンをするときの物の形をひとつひとつなぞっていく作業が、アーチェリーの常に同じ動作をするところに通じるものがあると私は感じました。また、美術全般に必要な「形を目で追う」ことが自分の姿を映像で見てフォーム修正をする時にすごく役立っている気がします。他人の射っている姿の違いもよく分かります。人生、何がどこで役に立つかはわからないですね(笑)。
二宮:なるほど。美術を学んだことが、アーチェリーの素養になっていたのかもしれないですね。
平澤:ええ。あとは大学では解剖学も勉強しましたので、人の筋肉が体の中でどうつながっているかを知っていることも役に立っています。たとえばトレーニングに取り入れているピラティスをやっている時に、「ここの筋肉を意識してください」と言われてもイメージしやすいですね。
伊藤:そうなんですね。デッサンは骨と筋肉がどうつながっているかを理解して描くと聞いたことがあります。
平澤:単に体の膨らみを描いてもそれらしくはならない。「筋肉がどこからつながっていて、どう動かすためについているかを理解して描きましょう」と言われていましたね。
二宮:それは面白いですね。平澤さんにとってアーチェリーは美術の延長で、芸術作品をつくっているような感じでしょうか?
平澤:そこまでカッコ良くはないんですが(笑)、スポーツというよりはひとつひとつの作業を淡々としていく感じです。例えるなら「職人」に近い気がします。最後に何かが作品としてできあがればいいんですけどね。
(第3回につづく)
<平澤奈古(ひらさわ・なこ)>
1972年8月1日、埼玉県生まれ。生まれつき四肢に障がいがある。24歳でアーチェリーを始める。2004年にアテネパラリンピック出場。女子個人(車いすW1/2)で銅メダルを獲得した。翌年の世界選手権では個人、団体で金メダルを手にした。北京、ロンドンパラリンピックには出場できなかったものの、その後も国内外の大会で好成績を収めた。15年11月にアジアパラ選手権で行われた出場枠獲得トーナメントで優勝し、リオデジャネイロパラリンピック日本代表に内定した。株式会社アクト・テクニカルサポート所属。13年7月からはさいたま市教育委員も務める。
(構成・杉浦泰介)