二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.05.19
第3回 12年ぶりのパラリンピック
~目標を見据え、無心で射抜く~(3/4)
二宮:リオデジャネイロパラリンピックの日本代表に内定し、平澤さんにとって12年ぶりのパラリンピックが近付いています。初出場となったアテネ大会のことは覚えていますか?
平澤:思い返してみるとアテネの時は無欲でした。当時の私はそれほど"パラリンピック"への思いが強いわけではなかったんです。でもバルセロナパラリンピック金メダリストの南浩一さんが同じ練習場にいて、南さんの奥さんが「奈古はパラリンピックに出るんだからね」と会う度に声をかけてくださっていたんです。それを聞いて"私はパラリンピックに出るんだなぁ"と思いながら練習をしていたことを覚えています。当時はアーチェリーがただ好きで、「無心で練習して、試合に出て、点数が伸びて......」という印象で、いつのまにかパラリンピックの出場権を取ることができました。
二宮:そうして臨んだ初の大舞台。車いすW1/2のクラスで見事銅メダルを獲得しました。
平澤:大会直前の世界ランキングも1位、予選も1位で通過することができました。周囲の人からは「金メダルを取れるんだよ」「取らなくちゃだめだよ」と言われていたのですが、準決勝で負けてしまったんです。今考えると恐ろしいんですが、その時には"金メダル以外ならいらない"と思ってしまいました(笑)。
伊藤:それほど優勝にかけていたんですね。
平澤:ただ、その直後に「奈古はパラリンピックに出る」と言ってくれた南さんの奥さんの顔が思い浮かびました。さらに壮行会を開いてくれた練習場の仲間たちの顔が走馬灯のように頭の中に浮かんで、"『負けました。何もありません』では帰りたくない""みんなにメダルを持って帰りたい"と思い、気を引き締め直しました。それで3位決定戦で勝って銅メダルを取ったんです。誰かのために勝ちたいと思ったのはその時が初めてでしたね。
二宮:それまでは自分のためだけに競技をやっていたと?
平澤:ええ。私はアーチェリーが好きだからやっていたので、勝つのも負けるのも"私の問題だ"と思っているようなところがあったんです。だからこの3位決定戦が"応援してくれている人たちのために勝ちたい"と初めて思った試合でした。そこで銅メダルを取れて本当に良かったです。その後の人生もメダルによって大きく変わりましたから(笑)。また、取れていなかったら次のパラリンピックを狙おうとは考えなかったと思います。
二宮:その意味でもメダルの威力は大きかったんですね。講演会などでも子どもたちに見せたらすごく喜ばれるでしょう。
平澤:そうですね。小学校などで子どもたちに自由に触ってもらっているので、見ての通りリボンもだいぶボロボロになっています。洗ってしまうと触ってもらったときの思いが消えてしまいそうな気がしてそのままにしているんです。さすがに「メダルをかじらないでね」とだけはお願いしていますね(笑)。
【手ぶらでは帰りたくない】
二宮:リオデジャネイロ大会は12年ぶりとなるパラリンピック。その間に競技を続けるか悩んだことはありませんでしたか?
平澤:アテネでメダルを取った後に私が出場していた車いすW1のクラスが、選手が少ないため廃止になってしまったんです。その時には"この先どうなるのかな"と落ち込みました。ただ、それも1日2日くらいでしたね(笑)。私はアーチェリーをやっていくしかないとすぐに練習を始めていましたね。
伊藤:4年後の北京パラリンピックでは惜しくも出場は叶いませんでした。
平澤:その時のショックは結構大きかったですね。ちょうど肩を痛めていて、"この先ちゃんと射てるようになるんだろうか?"という不安もありました。
二宮:そんな経験を経て、今回12年越しとなるリオデジャネイロパラリンピックへの出場内定となりました。やはり特別な思いがありますか?
平澤:そうですね。世の中の興味はリオを飛び越して東京へいってしまっていますが(笑)、私にとっては3大会ぶりのパラリンピックです。本当に行きたくて行きたくて何度も悔し涙を流してきてやっと掴んだ切符なので、とても特別な思いがあります。ただ行って帰ってくるだけには終わらせたくないですね。
二宮:平澤さんはコンパウンドの女子オープンというクラスで世界ランキング21位(5月現在)です。リオでの目標は?
平澤:今、日本と世界トップとのレベルの差は開いてしまっていて、メダルを取るのは簡単なことではありません。でも、アテネではメダルを取っていますし手ぶらでは帰ってきたくないと思っています。
(第4回につづく)
<平澤奈古(ひらさわ・なこ)>
1972年8月1日、埼玉県生まれ。生まれつき四肢に障がいがある。24歳でアーチェリーを始める。2004年にアテネパラリンピック出場。女子個人(車いすW1/2)で銅メダルを獲得した。翌年の世界選手権では個人、団体で金メダルを手にした。北京、ロンドンパラリンピックには出場できなかったものの、その後も国内外の大会で好成績を収めた。15年11月にアジアパラ選手権で行われた出場枠獲得トーナメントで優勝し、リオデジャネイロパラリンピック日本代表に内定した。株式会社アクト・テクニカルサポート所属。13年7月からはさいたま市教育委員も務める。
(構成・杉浦泰介)