二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.07.21
第3回 勝ちたい気持ちが力になる
~連覇に懸けるストライカー~(3/4)
二宮:さきほど常に頭の中にコートをイメージしているとお聞きしましたが、俗に言う"ゾーン"のような、ゴールまでの道筋が頭の中ではっきり描けていることはあるのでしょうか?
安達:ありますね。私の場合は、吐きそうなほど緊張している時がそうです。しかし、レフェリーが「プレー」とコールする瞬間に自分の中でスイッチが切り替わります。すごく集中してボールの軌道やコースが読めたり、相手の動きが全部わかるんです。直前までは食べたものを戻しそうになっているんですが(笑)。
二宮:極度に緊張している時ということは、それだけ大舞台に強いとも言えますね。
安達:逆に緊張しない方が「きょうは良くないな」と感じます。やはり"勝ちたい"という気持ちが強い時こそ緊張していると感じます。
伊藤:やはり気持ちの部分が大事なのですね。話は変わりますが、ロンドンパラリンピックでの金メダル獲得後、日本は国際大会でなかなか結果を出せない苦しい時期があったとお聞きしました。その時期の安達選手のお気持ちや、チームの状態はどうだったんですか?
安達:そうですね。ロンドンで金メダルを獲ったこと、更に翌年の2013年に東京大会が決まったことで、周囲からの期待が高まっているのは感じていました。しかし2014年の世界選手権では、3位までに入ればリオへの切符を獲れたところで4位でした。それでも"次は獲れるだろう"と思っていましたが、2015年のIBSAワールドゲームズでは2位以内がリオパラリンピックの出場権獲得の条件だったのですが、6位に終わりました。この結果が出なかった時期は、チーム編成も変わるなどなかなかチームがひとつの方向に向かず、すごくキツかったです。
二宮:焦りもあったのでは?
安達:ええ。ロンドンで金、次回は自国開催の東京なのに、リオに出場できないのは"ありえない"と思っていました。"ここは途切れさせてはいけない"というプレッシャーもあり、正直言うと、もう駄目なんじゃないかと思った時期もありました。昨年11月のアジアパシフィック選手権で優勝することがリオ出場のラストチャンスでした。「本当に出場権を獲れるんだろうか」という不安もありましたが、試合を重ねていくごとに「勝ちたい」という思いがどんどん強くなって、その気持ちをプレーで表現することもできました。優勝してリオへの切符を獲れた時は、"なんとか繋がった"とすごくホッとしましたね。
【最強のライバル・中国】
二宮:ロンドンパラリンピックの決勝も、リオへの出場権をかけたアジアパシフィック選手権の決勝も、対戦相手は世界ランキング1位の中国でした。そして、どちらの試合も安達選手が決めたゴールで優勝しています。中国に対して"得意意識"があるのでしょうか?
安達:中国に強いというよりは、アジア枠で何度も対戦しているので、割と戦いやすいところはありますね。ただ、どちらも1-0で勝てたのですが、昨年IBSAワールドゲームズ準々決勝では0-1で負けているんです。中国とは1点を獲れるか獲れないかの勝負なんです。
二宮:リオでも当然ライバルになってくると思います。安達選手から見て、中国の強さとは?
安達:やはり攻撃力ですね。プレースタイル的にはそれぞれのポジションから動かずに投げてくるので、サーチ(音で探ること)に関してはやりやすい相手ではあります。それでもなぜ強いのかというと、強い縦回転がかかったパワーのあるボールを投げてくるんです。ディフェンスが当てても弾きあげてしまい、ゴールに入る威力を持っています。球質的には世界トップレベルですね。
二宮:球質がいいというのは、手首の使い方が上手いのでしょうか?
安達:そうですね。中国の選手は身体の使い方が上手です。いかにボールに体重を乗せるかということがわかっている。欧米の選手に比べて身体は小さい方なんですが、強いボールを投げてくるので、"上手いな"と思います。選手の発掘にも、国をあげて力を入れていると聞きます。もともとフィジカルが強い選手が集まっていることもあるかもしれませんね。
伊藤:やはり手強い相手なんですね。
安達:ただお互い手の内はわかっているので、対策は取りやすいです。そういう意味で、ロンドンパラリンピックの時にはチームメイトと"中国に勝てるのは私たち日本だけだ"と言っていました。いろいろな作戦を取っていて、それがうまくハマった時は勝つことができていると感じています。「中国に強いか」と言われると、まだはっきりと「はい」とは言い切れないところもありますので、次に対戦して勝った時にそう言いたいですね。
(第4回につづく)
<安達阿記子(あだち・あきこ)>
1983年9月10日、福岡県生まれ。14歳の時に右目に黄斑変性症を発症し、19歳で左目も発症。2006年に国立福岡視覚障害センターへ入所し、ゴールボールに出合う。翌年に日本代表として世界選手権に出場すると、08年の北京パラリンピックにも出場した。12年のロンドンパラリンピックでは初の金メダル獲得に貢献。09年にリーフラス株式会社に入社し、講演会や体験会などの普及活動にも努めている。
(構成・杉浦泰介)