二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.08.12
第2回 悲願のリオパラリンピック出場
~夫婦で競い、共に目指す世界一への夢~(2/4)
二宮清純:まずは千明選手にお話を伺いたいと思います。リオデジャネイロ大会で念願のパラリンピック出場を決めました。しかし、北京、ロンドン大会へは派遣標準記録を突破しながら、推薦枠に入れず出場できませんでした。この時の心境は?
髙田千明:北京の時には"やり切ったからしょうがない"という諦めの思いがありました。実は本格的に陸上を始めたのは北京の予選会がスタートする年でした。時間もなかったので「北京には間に合わないだろうから、ロンドンを目指して頑張ろう」と考えていました。当時は100メートル、200メートル、400メートルの短距離走が専門だったのですが、練習をするうちに徐々に記録が伸びてきて北京大会の標準記録突破も見えてきた。そこで「北京大会も目指して頑張ろう」と急ピッチで練習のレベルを上げました。その時は本当に血反吐を吐くぐらい練習していましたから(笑)、もう身体はいっぱいいっぱいでしたね。
二宮:社会人1年目で環境も変わったばかりでした。
千明:(当時勤務していた会社では)朝6時に出社して、マッサージ師の仕事の後に練習場に直行して、疲れ果てて帰って......という繰り返しでした。仕事も始めたばかりだったので、体重が5、6キロ落ちてしまいましたね。練習では、きつくて1本走るごとにトイレで食べたものをもどしたり、頭が真っ白になりながら何本も走っていました。その結果、自分の目標としていた標準記録を1年の間に切ることができたんです。しかし、残念ながらパラリンピックの代表には選ばれませんでした。悔しさはありましたが、私はやり切ったという思いが強かった。一緒にトレーニングをした伴走の方は「ごめんな。オレの力が足りなかったな」と言ってくれましたが、妥協なく練習した結果だったので、「今回は仕方がない」と割り切れた面もあります。
二宮:次のロンドン大会の出場も叶わなかったことで、パラリンピック出場を諦めかけたことがあったとお伺いしました。
千明:ロンドンパラリンピックの時は、子供も産んで実家を離れ、家族を支える立場になりました。出産後は身体がなかなか戻らなかったり、掃除・洗濯・食事の準備などの家事に加えて、子どもの面倒を見ながらの練習で、うまくいかないことばかりでした。それでもロンドン大会の標準記録をなんとか切ることができたんですが、またしてもパラリンピックに行くことができなかった。私の両親からは「もうやめたらどうだ? 陸上は終わりにして子供に愛情を注いであげて」と言われました。競技を続けることは家事との両立の難しさもありましたし、すごく悩みました。
二宮:それでも続けようと思ったのは?
千明:主人に相談したんです。当時私が26、27歳くらいの時でしたが、主人は「まだ競技をできる歳だよね。"私はやり切った。子供と一緒に過ごすから陸上はもういいよ"と千明が言うんだったら、オレは別に止めない。でも、まだ年齢的にもできるのに妥協で辞めて、あとで"やればよかった"と後悔しても時間は戻ってこないよ。だから"本当にやり切った"と思うところまでやって、辞める方がオレはいいと思う」と言ってくれたんです。「やらずしての後悔よりもやって後悔の方がいい。人生は1回しかないからね」と主人の言葉を受けて、「そうだよね」と思い現役続行を決心しました。
二宮:そんな8年越しの想いをリオデジャネイロ大会で成就しました。どんなお気持ちでしたか?
千明:競技を続けられたことの一つには、意地もありました。「子供を産んだから陸上を辞めた」と言われるのは絶対に嫌でした。私も子供を理由に自分の夢を諦めたとは絶対に思いたくない。そんな意地で、ここまで続けてこられたところも少なからずありました。だからここで選ばれなかったら心が持たないと思っていたので、内定をもらったときは、ものすごく感極まって子供を抱きかかえながら号泣しましたね。
二宮:さぞやご両親も喜んでくれていたでしょう。
千明:両親もすごく結果を気にかけてくれていたので、すぐに電話で「決まった」と報告をしました。すると、一度は「子供のために辞めたらどうだ」と言っていた父親が泣いていました。「頑張った。今までのことが、報われて本当に良かったな」と号泣していたので、改めて応援をしてくれていたことを実感しました。
二宮:長男の諭樹君のリアクションは?
千明:それが......「え、行くの? いつからどれだけいないの?」と言われました(笑)。やはり海外での大会出場が決まると、数週間会えないので、寂しい気持ちもあるんですよね。「ママが一生懸命やった結果で行けることになったんだから、"おめでとう"って言ってよ」と言うと「おめでとう。良かったとは思うんだけど、オレはいつまで1人?」と。「パパが連れて行ってくれるからちょっとは会えるよ」と言うと「良かった」と安心していましたね(笑)。
【見えないことを忘れるぐらいの感覚】
二宮:競技についても詳しくお伺いしたいと思います。千明選手は障がいクラスがT11ということでしたね。
千明:はい。視覚障がいの中では1番程度が重いクラスです。
二宮:T11クラスの走り幅跳びは健常者のルールとどのあたりが違うのでしょうか?
千明:基本的にルールは同じです。大きく違う点は踏み切り板がないところです。私たちは踏み切る場所を見て確認できないので、1メートルの長さをもたせた踏切エリアを使用しています。エリア内で踏み切った時はその位置からの実測が記録になります(※)。そのほかには、コーラーという競技アシスタントをつけることができます。
※踏切エリアの手前で踏み切った場合は、踏切エリアの開始位置からの実測となる。
通常の走り幅跳びの場合は、どんな場合も踏切線(踏切板の最前部)から計測する。
二宮:コーラーとはどういった役割をするのでしょう?
千明:踏切エリア付近に立って声や音で踏み切る位置を教えてくれます。私の場合は、コーラーが手を叩いて位置を示しながら、私の走り出しに合わせて「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」「1、2、3、4、5」と声を出して、踏切るまでの15歩分の歩数を数えてくれます。
二宮:コーラーとの阿吽の呼吸が必要となってきますね。
千明:そのとおりだと思います。私が組んで教えていただいているのは、大森(盛一)さんというバルセロナ、アトランタの五輪2大会に出場した方です。ただ大森さんの専門種目は400メートルで、走り幅跳びは専門外でした。ロンドン大会落選後に練習を始めましたが、最初はお互いに手探りの状態でした。私たち視覚障がい者は最初から高校・大学レベルの練習をすることは難しいので、「まず5歩で跳んでみよう、そこに砂場がある」と小学校低学年くらいのレベルから、ゆっくりと教えてもらいました。大森さんも「どこまで詳しく教えるか」が凄く難しかったようで、幅跳びを専門にしている知り合いに教え方を聞いてくださったそうです。
二宮:千明選手にとって、陸上競技の魅力とは?
千明:自分が考える楽しさは、やはり視覚に障がいがあると、なかなか全力で走ったり跳んだりする機会がないと思うんです。私も目が見えなくなって、それまでは1人で走れていたものが走れなくなった。でも今は伴走の方がいて、コーラーの方がいて、周りの人に支えられて、見えなくても全力で100メートルをゴールまで走ることができます。
二宮:ガイドランナーやコーラーの存在は大きいと。
千明:はい。やはり安心感があります。"何かにぶつかるかもしれない""真っすぐ走れているのかな"と不安の中で走るのと、伴走の方がいて"絶対に曲がらない""ラインを踏まない"と思い切り腕と足を動かすのでは全然違います。パートナーとの信頼関係ができていれば"怖い"という不安もなくスタートからゴールまで走れますから。走り幅跳びもやはり恐怖心を拭い切れないのは事実で、歩数を間違えて着地が砂場に届かず痛い思いをすることもありました。それでもコーラーを信頼して、しっかりと踏み切って跳べた時は本当に体がフワッと浮いた感覚が味わえるんです。それはすごく気持ちがいいし、自分に視覚障がいがあることを忘れてしまうぐらい楽しいです。
二宮:日常では味わえないような感覚になれると。
千明:そうですね。普通の幅跳びと違い、T11クラスではまず真っすぐ走っていくことも競技の一部です。それで踏み切る位置、体の位置、砂場がどこにあるかというすべての要素を感覚でとらえてなければいけません。そういった技術を磨くことで記録を伸ばしていくことができる。私も30歳を越えて、体のバネだけでポンと勝負はできないのですが、世界と戦うことができる。そういう楽しみもすごくありますね。
(第3回につづく)
<髙田千明(たかだ・ちあき)>
1984年10月14日、東京都生まれ。ほけんの窓口グループ株式会社所属。2011年 IBSA ワールドゲームズで 200メートルで銀メダル、100メートルでは銅メダルを獲得し、全盲日本人女子短距離初のメダリストとなった。2013年に走り幅跳びへ転向。同年の IPC陸上競技世界選手権大会の走り幅跳びで6位入賞を果たした。2014年のアジアパラ競技大会では同種目で銀メダル獲得。2008年に長男・諭樹くんを出産した後も活躍を続けており、全盲のママさんアスリートとして注目されている。今年7月にリオデジャネイロパラリンピック日本代表に決定した。
<髙田裕士(たかだ・ゆうじ)>
1984年11月3日、東京都生まれ。エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社所属(エイベックス・チャレンジド・アスリート公式HP)。高校までは野球部で、横浜国立大学入学後に陸上競技部へ転向した。専門は400メートルと400メートルハードル。2012年トロント世界ろう者陸上競技選手権大会の 1600メートルリレーでは第1走者として、銅メダル獲得に貢献した。聴覚障がい者の国際大会における日本男子トラック種目史上初のメダル獲得だった。2015年アジア太平洋ろう者競技大会の400メートルハードルでは銀メダルを手にした。デフリンピックは2009年台北大会、2013年ソフィア(ブルガリア)大会と2大会連続出場中。来年のサムソン(トルコ)大会でのメダル獲得を目指している。
(構成・杉浦泰介)