二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.09.15
第3回 パラリンピック競技採用で運命が激変
~パラリンピック初代女王を目指して~(3/5)
二宮清純:パラバドミントンに転向した後、すぐに結果を出されたそうですね。
鈴木亜弥子:大学3年からパラバドミントンを始めるようになって、2年後の2009年には世界選手権で金メダルを獲得しました。その翌年、中国・広州で行われたアジア選手権でも優勝することができました。
二宮:それだけの成績を収めたにも関わらず、鈴木選手はその後コートから離れています。それはどういう理由に依るものだったのでしょう?
鈴木:その当時、パラバドミントンはパラリンピックの正式競技ではありませんでした。ですからその時獲得した以上の金メダルはありません。それで「もういいかな」という気持ちになったことと、バドミントン漬けの人生だったのでそれ以外のことをやってみたくなったことが理由です。
二宮:ロンドン大会やリオデジャネイロ大会でパラバドミントンが正式競技だったら、違う選択もあったかもしれませんね。
鈴木:そうですね。その場合は続けていたかもしれないですね。
二宮:パラリンピックの正式競技に選ばれていた他の競技に対して、羨ましいと思うことはありましたか?
鈴木:いえ、特になかったです。こればかりは自分が決められることではありませんから。それはそれ、と私の中でも割り切れていました。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長):スッパリと引退されて、普通に会社員生活を送られていたのでしょうか?
鈴木:はい。OLをしていました。普通の事務の仕事ですね。お金を稼ぐって大変なんだなって思いました(笑)。
伊藤:その間、バドミントンからは全く離れていたのですか?
鈴木:そうですね。1年間に1回、ラケットを握るぐらいでした。本当にやっていなかったです。
【復帰の理由は「金メダルを獲っていないから」】
二宮:そこから「もう1回やろう」とカムバックを決意したのは、東京パラリンピックでの正式競技に決まったことが大きかったのでしょうか。
鈴木:はい。確か正式競技に決まったのが、2014年10月か11月頃でした。私に復帰して欲しかったのか、両親が「正式競技に決まったみたいよ」と頻繁に私に言っていたことを覚えています(笑)。決定してすぐはその気になりませんでしたが、「私、パラリンピックの金メダルだけ獲っていない」と思って、復帰を決意したんです。
伊藤:ご家族も復帰を応援してくれていたんですね。
鈴木:そうだと思います。前職を辞めて「こっち(パラリンピックを目指す)の道に進もうと思う」と両親に言ったら、「いいんじゃない。やりたいことやりなよ」と返ってきました。素っ気ない感じではありましたが、内心は嬉しかったんだと思います。
二宮:復帰しておよそ半年、今年5月に競技の環境を整えるために日本バドミントンリーグ所属のクラブがある七十七銀行に入行されたとお聞きしました。
鈴木:ええ。今は仙台にある会社の寮で暮らしています。陸上部とバドミントン部の女子部員たちと寮生活で、毎日が合宿みたいな感じです(笑)。
二宮:七十七銀行を選んだ理由は?
鈴木:前職は定時まで週5日の勤務だったので練習時間がなかなか取れなかったんです。そこで高校時代のコーチに連絡をとって「また教えてください」とお願いしたところ、その方が七十七銀行でコーチをしていたんです。その後コーチが会社の方に紹介してくださり、加入することができました。
伊藤:それをご存知なくて、コーチにアプローチしたんですか?
鈴木:はい。最初は全く知らなかったんです。本当に偶然というか、幸運でしたね。
伊藤:2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催決定と、パラバドミントンの正式競技採用で人生が変わったわけですね。
鈴木:それまでは普通のOLで生きていくと思っていたので、自分でもビックリしました。人生何が起こるか分からないんだなと。
(第4回につづく)
<鈴木亜弥子(すずき・あやこ)>
1987年3月14日、埼玉県生まれ。七十七銀行所属。生まれつき右腕が肩より上がらない障害がある。小学3年でバドミントンを始め、中・高・大学までバドミントン部に所属。インターハイに出場するなど健常者の大会で結果を残してきた。大学3年で初めて障がい者の大会に出場し、2009年の世界選手権と2010年のアジアパラ競技大会で金メダルを獲得した。その後、一度は現役を引退したが、東京パラリンピックを目指して今年復帰すると、2月の日本選手権で優勝。アイルランド、インドネシアと国際大会でも連続優勝を果たした。8月22日現在世界ランキング4位。
(構成・杉浦泰介)