二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.10.13
第2回 競技との出合い、ワールドカップ初開催へ
~第一人者が創る電動車椅子サッカーの未来~(2/4)
二宮清純:北沢選手は今では電動車椅子サッカーの顔と言える存在ですが、競技を始めたきっかけは?
北沢洋平:小学5年の時に、母親の勧めではじめました。そのころ、周りの友達がサッカーや野球で遊んでいるのに、障がいがあったこともありスポーツをやっていませんでした。「何かやらせなくてはいけない」と、母が同じ病気の人たちがやっているこの競技を見つけ出し、練習に連れ出してくれたんです。でも、実は最初はそんなに好きじゃありませんでした(笑)。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長):お母さんの方がやる気があったんですね(笑)。
北沢:当時は現在とはルールもだいぶ違いました。車椅子同士がボールを押し合うラグビーのような形で、今思えばサッカーとは呼べなかったな、と。
二宮:競技をやっていくうちに次第に夢中になっていったんでしょうか。
北沢:はい。中学卒業後は特別支援学校に進学したのですが、そこの体育館で当時全国トップクラスのチームが活動していたんです。一緒に練習をさせていただいたら、皆さんがすごくうまかった。"自分もこうなりたいな"と感じて、そこから競技にのめり込んでいきました。
二宮:電動車椅子サッカーを始めて人生観は変わりましたか?
北沢:はい。サッカーをやる前は結構引っ込み思案で、自分から何かを発することが苦手だったんです。それが今、こうやって取材で二宮さんとも普通にしゃべれるようになりました(笑)。自分を出せるサッカーという場を得られたことで、人生も楽しくなったんです。
二宮:それまでとは全く変わったと?
北沢:障がいを抱えているとネガティブになりがちなんです。でもサッカーに出合ったことで、自分にできることがあると知ることができた。それから物事に対してポジティブに考えられるようになりました。
【ルール統一会議に参加】
伊藤:先ほど昔はルールが違ったというお話がありましたが、2007年の第1回ワールドカップが日本で開催される前に国際ルールが統一されたと聞きました。
北沢:はい、当時は世界各国でそれぞれ違うサッカーをやっていたんです。そこで、ワールドカップ前の2005年と2006年にルール統一の会議が開催されました。実は私もアメリカのアトランタで行われた2006年の会議に参加し、そこで各国のサッカーがどういうものかを知ることができました。
二宮:どのあたりのルールが違ったのでしょうか?
北沢:コートの広さは一緒だったのですが、内容が異なりました。日本やアメリカはボールに対して密集してもOKなラグビーのようなタイプでした。対するフランスは健常者のサッカーと同じように"シャンパンサッカー"。パスの多いタイプでした。ルールも選手同士の間隔をあけて1対1で争うのが基本で、ボールを囲むことが反則になっていました。最終的にはフランスのサッカーがベースになり、ボールに対して半径3メートル以内に各チーム1人しか関与できないという現在の「2on1」というルールができました。
伊藤:ボールに関してはどうでしょう?
北沢:これも違いましたね。日本、アメリカは直径50センチの大きいボール、フランスはバスケットボールを使用していました。
二宮:小さいですね! それだとボールを扱う技術が必要になりますね。
北沢:そうですね。フランスのサッカーは、それでもうまくパスを回していきます。その方が観ている人も面白いので、フランスに近いルールが現在採用されています。会議では集まった国それぞれのルールで実際にプレーをして、比較をすることもありました。
二宮:いい点悪い点を議論して、統一ルールになったんですね。
伊藤:ルールを統一していくのはどれだけ難しいことか。それができないために世界で広まっていかないスポーツはたくさんあると思います。北沢さんも参加できたことはいい経験になったでしょう?
北沢:そうだと思います。この議論があったからこそ、日本で開催された2007年のワールドカップにつながりました。
(第3回につづく)
<北沢洋平(きたざわ・ようへい)>
1984年3月14日、東京都生まれ。6歳の時、筋ジストロフィーと診断される。小学5年で電動車椅子サッカーを始める。95年に東京のクラブチーム・レインボーソルジャーを結成し、主力選手として日本選手権5度の優勝を経験する。日本代表では2007年日本大会(4位)、11年フランス大会(5位)と2度のW杯に出場し、チームの主力としてプレーした。13年には第1回APOカップ(アジア太平洋オセアニア選手権)で優勝。PwCあらた有限責任監査法人に所属。
※競技の映像をこちらから見ることができます。(映像/日本電動車椅子サッカー協会)
(構成・杉浦泰介)