二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.12.08
第2回 世界を目指すきっかけとなった敗戦
~挑戦し続ける車いすテニスのレジェンド~(2/4)
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長):車いすテニスを始める前は車いすバスケットボールをプレーしていたとお伺いしました。
齋田悟司:はい。今44歳なんですが、車いすバスケをやっていたのはもう30年も前になりますね。小学生の頃は野球をやっていたのですが、12歳の時に骨肉腫で左足を切断することになってしまったんです。私は体を動かすことが大好きで、スポーツをすることが生き甲斐と言ってもよかったので心を閉ざしてしまった時期もありました。
二宮清純:車いすバスケに出会ったきっかけは?
齋田:中学校を休みがちになったことがあって、それを見かねた親が"何かスポーツができないか"と探してくれたのが、車いすバスケでした。やってみると、久しぶりにスポーツをして汗をかくということが、本当に気持ち良かった。"試合に出たい"という思いというより、純粋に楽しんでプレーしていましたね。また、普通の学校生活では障がいのある人と接することがあまりなく"なんで自分だけが"と落ち込んだりしたのですが、チームでは先輩たちにいろいろなことを教えてもらえましたし、"自分だけじゃないんだ"と勇気づけられましたね。
二宮:そうだったんですね。プレー面では、車いすバスケはチェアワークがカギになりますよね。
齋田:そうですね。私は普段の生活は義足で、スポーツをする時だけ車いすに乗っていたので最初は全然ダメでしたね。年配の人と競争しても全然勝てませんでした。それでも練習することによって、徐々にできなかったことができるようになっていく、成長をしていく達成感を味わえるのがすごくうれしかったです。この時は本当にちょっとでも上手になろうという気持ちだけでしたね。
【チーム丸ごと車いすテニスへ】
伊藤:その後、車いすテニスに転向されたのにはどんな理由があったのですか?
齋田:中学2年の頃に車いすテニスがちょうど全国に普及し始めて、車いすバスケのチームの皆で講習会を受けたんです。そこで皆が「テニスも楽しい」となってしまい、バスケとテニスを半々くらいで練習するようになりました(笑)。そこからだんだん皆がテニスに夢中になって「バスケを辞める」と言い出したんです。
二宮:集団転向ですね(笑)。齋田選手もテニスの方が面白かったですか?
齋田:私はどちらかといえばバスケをやりたかったんです(笑)。でもバスケチームがなくなってしまったので、仕方がなく"僕もテニスやります"と、皆の後ろについて行きました。
伊藤:とはいえ、そこからパラリンピックのメダリストになるんですから、人生はわからないですね。
齋田:本当ですね(笑)。
二宮:齋田選手は野球もやっていたから腕力もあったでしょうし、上達も速かったのでは?
齋田:そうですね。ラケットにボールを当てるという点では、野球にちょっと近いものがありました。バットと比べるとラケットは大きいから"当たるじゃん!"みたいな感じでしたね(笑)。肩は野球をやっている時からすごく強かったので、サーブや強打は得意でした。
【肌で感じた世界との距離】
二宮:そこからメキメキ力を付けていって、日本代表になりました。初めて出場したパラリンピックはアトランタ大会ですが、どういった思いで臨まれましたか。
齋田:アトランタ大会はとにかく出たかった。それが私の一番の目標でしたので"出場できて良かった"という気持ちでいっぱいでした。
二宮:海外の選手と対戦してどんなことを感じられましたか。
齋田:そうですね。私はシングルス2回戦で当時世界ランキング1位だったデビッド・ホール選手と対戦しました。対戦前、"勝てないにしても、そこそこ戦えるかな"と思っていたのですが、実際戦ってみたら全く歯が立ちませんでした。
二宮:そこで世界トップとの距離を知ったと。
齋田:ええ。そこで自分の負けん気が刺激されました。当時は地元の三重県四日市の市役所に務めており、練習は土日しかできない厳しい状況でした。それがこの試合をきっかけに"もっと世界と戦えるようになりたい""チャレンジしたい"という気持ちが芽生えたんです。
伊藤:そして車いすテニスのために、住み慣れた町を離れたと聞きました。
齋田:そうなのですが、決断するまでには2、3年かかりました。公務員という安定した職に就いていましたし、当時日本では障がい者スポーツでプロ活動をしているような選手もいなかったですから。しかし、本気で取り組むのであれば千葉県柏市の吉田記念テニス研修センター(TTC)でやりたいと思っていました。
二宮:周囲からは反対されたのでは?
齋田:はい。家族にも反対されましたし、賛成してくれる人は周囲にいませんでしたね。しかし、千葉県に本拠のある車椅子メーカーのオーエックスエンジニアリングが就職先として私を引き受けてくださり、思い切って地元を出てチャレンジをすることができました。当時の石井重行社長は元レーサーで、競技者の気持ちにすごく理解があった。競技は違っても、同じ勝つことを目指してやってきていた人として、私がやりたいことを後押ししてくれました。
(第3回につづく)
<齋田悟司(さいだ・さとし)>
1972年3月26日、三重県生まれ。12歳の時に骨肉腫で左足を切断。14歳で車いすテニスを始める。1996年アトランタ大会からパラリンピックは6大会連続出場。2004年アテネ大会で国枝慎吾と組んだ男子ダブルスで金メダルを獲得した。同じく国枝と組んだダブルスで2008年北京大会、2016年リオデジャネイロ大会で銅メダルを手にした。11月21日現在、世界ランキングはシングルス29位、ダブルス17位。身長185センチ、体重72キロ。株式会社シグマクシス所属。
(構成・杉浦泰介)
会場協力/ホテルサンルート千葉