二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2016.12.15
第3回 "5年計画"で掴んだ金メダル
~挑戦し続ける車いすテニスのレジェンド~(3/4)
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長):1999年に練習拠点を千葉県柏市に移し、翌年のシドニーパラリンピックで2度目の出場を果たしました。
齋田悟司:当然、シドニーでは結果を残したい気持ちもありましたが、99年に新たにスタートした時はすでに5年後を目標にしていました。5年計画でトレーニングを積んで、ツアーを回り、結果は5年後に出すという考えでした。
伊藤:その時点で既にアテネパラリピックを意識していたわけですね。
齋田:ええ。そんなに早く結果は出せないと思っていましたので、言い方は悪いですがシドニーは通過点のようにとらえていました。
二宮清純:5年も先を見据えていましたか。"次のパラリンピックで"というのは、まだ早いと?
齋田:はい。本格的にトレーニングを始めたとは言え、1年では得られる経験値に限りがありましたから。結果もシングルス・ダブルス共にベスト8でした。
【苦労が多かったツアー転戦】
二宮:それだけ世界トップとの差を感じていたわけですね。その頃は日本人が世界のツアーを転戦することも珍しかったのでは?
齋田:そうですね。日本は今でこそ強豪国になりましたが、当時はまだまだ弱い国でした。誰も見向きもしてくれなくて居場所もなく、練習相手やダブルスパートナーを探すことすら大変でした。そんなこともあり、試合以前に向こうでの生活のリズムを立てるのにすごく苦労しました。
二宮:一番つらかった思い出は?
齋田:海外にも慣れてきた頃にベルギーの大会へ行った時、飛行機を降りると荷物として預けていた競技用の車椅子がペッチャンコになって出てきたんですよね。試合をやるために練習をしてきて、現地まで来ているのに戦うことすらできない。それはつらかったですね。
伊藤:齋田選手が世界ツアーに参戦し始めた頃は先輩もいなかったでしょうし、苦労も多かったと思います。それでもアテネパラリンピックの前年には日本人選手として初めて国際テニス連盟が選出する世界車いすテニスプレーヤー賞を受賞しました。
齋田:そうですね。その頃にはだいぶ成績も上がってダブルスで世界ランキング1位を獲っていました。また、その年は国別にチームを組んで戦うワールドチームカップで日本が初めて優勝したこともあり、この賞に選んでいただいたのかなと思います。
【勝負の2004年に迎えたパラリンピック】
二宮:そして5年計画の5年目に迎えたアテネパラリンピック。3度目の出場となるパラリンピックのダブルスで金メダルに輝きました。
齋田:出るからには当然、シングルスとダブルス両方での優勝を目指していました。しかしシングルスの方は、準々決勝で当時世界ランキング1位のロビン・アマラーン(オランダ)選手に負けてしまいました。その時は私が先にマッチポイントを掴み、あと1ポイントを取れば勝てるというところまで追い込んでいたのに、試合を引っくり返されてしまったんです。
二宮:悔やまれる敗戦だけに、尾を引くことはなかったんでしょうか?
齋田:ええ。残すところはダブルスだけ、と気持ちを切り替えました。しかしペアを組んでいた当時20歳の国枝慎吾選手が肩を痛めていて、痛み止めの注射を打ちながらプレーする満身創痍の状態でした。そして、準決勝で対戦したのが自分の目標とするオーストラリアのデビッド・ホール選手がいるペアでした。
伊藤:アトランタ大会で敗れ、世界にチャレンジするきっかけとなった相手ですね。
齋田:はい。この試合では、シングルスとは逆に相手に先にマッチポイントを取られましたが、そこから逆転して勝つことができたんです。それで勢いに乗って、決勝も勝つことができました。アテネの時は接戦が多くて、苦しかったですね。
二宮:5年計画が実を結んだわけですね。まさしく計画通りでした。
齋田:計画通りにいって自分もびっくりしました(笑)。でも、シドニーパラリンピックが終わってから2年ほどは全然いい成績を残せず、つらい時期が続いていたんです。仕事を辞めて千葉に来る決断したことは正しかったのかどうか不安になって、"やらなければよかったんじゃないか"と思うこともありました。「5年計画で頑張る」とは言ったものの、アテネ大会まで残り3年、2年と近づいて、"どうしよう"と焦りも出てきて、ケガをすることもありました。
二宮:失敗や挫折を乗り越えての金メダル。メダルを手にしてジンとくるものはありましたか?
齋田:そうですね。決勝戦で勝った瞬間は、うれしいという感情よりも先にホッとしました。 "やっと終わった"というような安堵感があったんです。それでも表彰式でメダルを首に掛けてもらった時にうれしさがこみ上げてきましたね。
(第4回につづく)
<齋田悟司(さいだ・さとし)>
1972年3月26日、三重県生まれ。12歳の時に骨肉腫で左足を切断。14歳で車いすテニスを始める。1996年アトランタ大会からパラリンピックは6大会連続出場。2004年アテネ大会で国枝慎吾と組んだ男子ダブルスで金メダルを獲得した。同じく国枝と組んだダブルスで2008年北京大会、2016年リオデジャネイロ大会で銅メダルを手にした。11月21日現在、世界ランキングはシングルス29位、ダブルス17位。身長185センチ、体重72キロ。株式会社シグマクシス所属。
(構成・杉浦泰介)
会場協力/ホテルサンルート千葉