二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2017.01.12
第2回 諦めなかったことで掴んだリオ行きの切符
~2020東京へと続く航路~(2/4)
二宮清純:瀬立モニカ選手は高校2年からパラカヌーを始め、2014年の日本選手権で優勝。翌年には世界選手権に出場しました。
瀬立モニカ:はい。2015年8月にあったイタリアで行われた世界選手権が初めて日の丸をつけて参加する大会でした。この大会はリオデジャネイロパラリンピック1次選考を兼ねていました。パラカヌーは、1クラス各国1人までという条件付きで上位10名までがパラリンピックの出場権を得られます。日本で1番だから出られるわけでもなく、まず世界で10番以内に入ることが条件になります。
二宮:なるほど。初めて日本代表として臨んだ大会で、リオ行きが懸かっていたんですね。
瀬立:このイタリアの世界選手権では上位6名までにリオパラリンピック出場権が与えられました。私は決勝まで残ったものの、9位。リオ行きは最終選考会に持ち越しとなりました。翌年の5月にドイツであった世界選手権が最終選考会、残りの出場枠は4つです。しかし、残念ながら結果は5位でした。1次選考と合わせ、私は全体の11番目。あとわずかでパラリンピックには出られないという結果にとても落ち込みました。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長):あと一歩というところですから、ショックは大きかったでしょうね。
瀬立:はい。でもすぐに "2020年に向けて頑張っていこう"と切り替えて、コーチたちとドイツで話し合いました。トレーナーから見た改善点を指摘してもらったり、メカニック的にはシートをどう調整すべきか意見を交換しました。練習の頻度に過不足がないかなど、コーチからもアドバイスをもらいました。私からは今後どういうふうにしていきたいかということを話し、2020年に向けて頑張っていこうということで日本に帰国したんです。
【帰国後にまさかの吉報】
二宮:ところが、日本で吉報が届いたと?
瀬立:そうなんです。家に帰ってすぐにコーチからテレビ電話が入ったんです。"なんだろう?"と不思議に思いながら電話を取ると、「モニカ、リオ決まったよ!」と言われたんです。驚いて「どうしてですか?」と聞き返すと、監督宛にICF(国際カヌー連盟)から「中国の選手が失格になって繰り上がりで10位になった」とメールがきたそうなんです。うれしかったのですが、まだ監督に確認がとれなかったので、うれしさ半分、不安な気持ち半分でしたね(笑)。
伊藤:最初に報告したかったのは誰でしたか?
瀬立:やはりお母さんですね。早く伝えたかったのですが、ちょうど近所に買い物に行っていました。帰ってきてすぐに「リオ決まったよ」と伝えると、驚いて買い物袋を床に落としました(笑)。
二宮:ドラマみたいなリアクションですね(笑)。相当うれしかったんでしょう。
瀬立:お母さんは「本当良かった」と喜んでくれましたが、それと同時に「なんで?」って驚いていました(笑)。私が中国の選手が失格になったということを説明すると納得して一緒に喜び合いました。それはもう感動でしたね。
二宮:やはり最後まで、諦めるもんじゃないですね。
瀬立:本当そうですね。もし最終選考会で"負けそうだ"という気持ちがあって勝負を諦めていたら、今回の出場権獲得という結果は得られなかったと思います。そこは最後までしっかり戦い続けることの大切さは感じましたね。
伊藤:本当ですね。もし諦めていたら繰り上げでもリオデジャネイロパラリンピックに届かなかったということですもんね。
瀬立:はい。11位だからこそリオに出られた。それは本当に良かったですね。
二宮:競技生活、これまでいろいろな人に恵まれたり、ツキもあるのかもしれませんね。
瀬立:いいタイミングでいい仲間たちと出会って、ここまでくることができました。自分の力だけではここに来れていないなと思います。リオの舞台に立つことができて、感謝の気持ちを改めて確認できました。
(第3回につづく)
<瀬立モニカ(せりゅう・もにか)>
1997年11月17日、東京都生まれ。パラカヌー・KL1クラス。高校1年時に、体育の授業でケガをして体幹機能障害を負う。高校2年からパラカヌーを始めると、その年(2014)年から日本選手権を連覇。2015年には世界選手権に出場した。今年のリオデジャネイロパラリンピックでは、8位入賞。筑波大学在学中。
(構成・杉浦泰介)