二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2017.03.16
第3回 攻めて掴んだリオへの切符
~世界で煌めく金髪の卓球王~(3/5)
二宮清純:吉田選手がパラリンピックを具体的に目指そうと思ったのはいつですか?
吉田信一:2011年の東日本大震災があった後ですね。翌年に控えたロンドンパラリンピックを目指しました。
二宮:きっかけは何だったのでしょう?
吉田:震災の2カ月後にオランダのロッテルダムで健常者と障がい者が一緒の会場で行う大会がありました。日本から参加した障がい者卓球の選手は私ひとりでしたが、健常者のトップ選手の中には福原愛選手や水谷隼選手なども参加していたんです。その時に"これだけ有名な選手たちがいっぱいいるので、故郷の福島に何か元気付けられるものを持って帰りたい"と思いました。
二宮:その「何か」とは?
吉田:現地に国旗を持って行っていたので、世界で活躍している有名な選手たちからメッセージを寄せてもらいました。それを帰国して福島でお世話になった卓球関係者に渡すと、とても喜んでくれたんです。福島の方々が元気になれば、私もうれしいですし、力をもらえる。その時に"こういう励まし方もあるけど、自分が活躍することで元気になって欲しいな"とも思いました。"東北のためにスポーツで何ができるだろう"と考えたら、やはり私たちは結果を出すことで、"みんなも頑張ってね"というメッセージを送りたかったんです。
二宮:しかし、惜しくも出場権を手にすることはできませんでした。
吉田:そうなんです。車いす卓球は1から5までのクラスに分かれていて、数字の小さい方が重度の障がいで、数字が大きくなるにつれ障がいが軽くなります。私は中間の3です。パラリンピックの出場権を得るためには、そのクラス3の中で世界ランキング24位まで入らなければいけない。しかし、結果的には27位でした。わずかに3つ足らなかったんです......。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長」):その悔しい経験を経て、リオデジャネイロパラリンピック行きの切符を手にすることができたわけですね。
吉田:ロンドンがダメになり、さらには親父が亡くなったこともあって、気持ち的にもいろいろとリセットしなければいけませんでした。
【選考レース一本に絞る作戦】
二宮:リオに向けてはどのような調整を?
吉田:正直、海外遠征をするにはお金も必要でした。だから費用を工面するために2年間は大会に出ないで、まずは資金を貯めることにしました。試合には出ませんでしたが、"自分の技術を上げるためには練習をしっかりすればいい"と考えて、2年後からリオにチャレンジするようにしたんです。
二宮:それは勇気のいる決断だったのでは?
吉田:そうですね。世界選手権出場の可能性を捨てて、リオパラリンピックの選考レース一本に絞るわけですから。選考レースに参加するにあたり、後半の2年間まず私がしたことは自分のスタイルで有利に運べる大会を選ぶようにしたんです。アジア圏での大会は出ませんでした。アジアには私とスタイルが似た選手が多いので、それよりもカッとなってミスをする傾向のあるヨーロッパ選手との戦いを選びました。私の持ち味は粘り強い卓球ですから、相手をイライラさせてミスを誘うことができると思ったんです。
伊藤:戦略的な判断だったんですね。
吉田:そういう計算の下、ランキングを上げていくことができ、リオに向けての最後のコスタリカでの大会前の時点で19位だったんです。ただ大陸選手権の優勝者はランキングに関わらず出場権を得ることができるので、まだ安全圏とはいえなかった。大会に出場せず、ライバルが負けることを期待するのも手でした。でも私は"ここで負けるようならリオに出ても負ける。だから攻めでいこう"と決めたんです。
二宮:賭けに出たと。
吉田:ええ。しかし、予選で私よりランク下の相手に負けてしまったんです。それでもなんとか予選を通過し、決勝トーナメントに進みました。準々決勝、準決勝と勝ち上がり、決勝の相手は世界ランキング5位のスウェーデンの選手でした。過去に1回も勝ったことがない選手に、なんとフルゲームで勝つことができたんです。これでランキングも上がり、その後の団体戦も優勝したことでランキングは15位にジャンプアップしました。安全圏に入ることができ、大会に出場しなかったライバル選手からは"攻めた吉田に負けた。良かったな"などと声もかけられました。
二宮:4年越しの思いもあれば、賭けにも勝ったわけですね。喜びもひとしおだったでしょう?
吉田:はい。優勝した時は本当にうれしくて、泣きましたね。ベンチに入ってくれた日本人選手には「吉田さんのああいうところを見たのは初めてでした」と言われましたね。でも、寂しいことに他の日本人選手は誰もいなかったんです。実はみんなご飯を食べに行っていたんです(笑)。
二宮:アハハハ。それは面白い。
吉田:試合中は現地の人が応援してくれましたが、それだけは少し寂しかったですね(笑)。
(第4回につづく)
<吉田信一(よしだ・しんいち)>
1965年12月13日、福島県生まれ。車いす卓球クラス3。17歳の時に交通事故で車いす生活となる。28歳で車いす卓球を始めると、国内外の大会で優勝した。2014年インチョンアジアパラではシングルスベスト8に入り、団体では銅メダルを獲得。2016年にはリオデジャネイロパラリンピックに出場した。世界ランキングは23位(2017年3月現在)。情報通信研究機構卓球部/ディスタンス所属。
(構成・杉浦泰介)