二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2017.11.09
第2回 完敗で目が覚めた
~未来へ経験を引き継ぐパラスイマー~(2/5)
二宮清純: 水泳を再び始めようと決意しても、久しぶりにプールに入るのは怖かったのでは?
江島大佑: そうですね。まずは、水の中に入って軽く泳ごうと思ったところからスタートしました。かつて水泳を習っていたイトマン京都のコーチに「おいで」と声を掛けてもらって、泳ぎ始めたんです。しかし、両手両足で、スイスイ泳いでいた時とは全く違う。左半身が麻痺しているせいでバランスが全く取れず、とても難しかったですね。
二宮: 勝手が違うでしょうしね。これまでは動いていた左半身が自由に動かないわけですからね。
江島: 麻痺のない右半身にばかり負荷がかかって、肩が痛くなりました。どうしても動いている方に力が入るというか、バランスを取りにいきますからね。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長): その後、世界大会に挑戦した時に大きな壁を感じたとお聞きしました。
江島: そうですね。僕が初めて日本代表に入ったのは16歳の時です。同じ高校生で障がいのある選手がいたのですが、イトマンなどのようにガンガン泳いでいる人は少なかった。その当時は世界的にもリハビリの延長線上というイメージがあったんです。その頃には、国内トップクラスの選手になっていたので、正直、甘く見ていました(笑)。
二宮: 実際に出てみたら、"こんなはずじゃない"と驚きました?
江島: ええ。僕と同じS7クラスにトップスイマーのリンゼイ・アンドリュー(イギリス)選手がいて、初めて出たアルゼンチンの2002年世界選手権で彼に完敗しました。100メートル背泳ぎで15秒ぐらい差を付けられたんです。
伊藤: それは大ショックですね。
江島: はじめは甘く見ていたのが、圧倒的な差をつけられて、そこで目が覚めました。"本当にパラリンピックを目指すなら、アンドリューに勝たなければならない"と。負けたことは悔しいですが、とてもいい経験になりました。初めての国際大会は世界の壁の厚さを痛感したレースでした。
二宮: その後、初のパラリンピック出場を果たします。舞台は2004年アテネ大会です。
江島: アテネでは、本当に緊張しました。今までに経験したことのないものでした。パラリンピックという舞台の大きさを改めて感じました。
伊藤: 国内の大会と比べて観客の数も違いますもんね。アンドリュー選手とはレースでぶつかったのでしょうか?
江島: はい。100メートル背泳ぎ決勝です。2年前の15秒差から3秒差まで縮めたんですが、アンドリュー選手に負けてしまって5位でした。ただ前半50メートル付近まではリードしていたんです。すぐに"もう一度、挑戦して勝ちたい"との思いが湧いてきました。
二宮: 負けはしたものの、手応えを感じた部分もありましたか?
江島: そうですね。年齢も当時18歳で大学1年生。アテネパラリンピックでは個人種目で2つの入賞。4×50メートルメドレーリレーでは銀メダルを獲得しました。次の北京パラリンピックは22歳と年齢的にもいい時期です。"このまま練習すれば勝てる"という自信もありました。
(第3回につづく)
<江島大佑(えじま・だいすけ)プロフィール>
1986年1月13日、京都府生まれ。S7クラス。3歳から水泳を始める。12歳のときに脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残った。2000年シドニーパラリンピックをテレビで見て再び水泳をスタートする。立命館大学に進学後、2004年アテネパラリンピックに出場。初出場ながら4×50メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得した。2006年にはワールドカップ50メートル背泳ぎで世界記録を樹立。2008年北京パラリンピックでは100メートル背泳ぎで5位入賞、50メートルバタフライでは4位入賞を果たした。2012年ロンドンパラリンピックは50メートルバタフライで5位入賞。若手育成・強化のための合同合宿「エジパラ」を開催し、後進の育成にも力を入れている。株式会社シグマクシス所属。
(構成・杉浦泰介)