二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2023.05.11
前編 ライバルは過去の自分
~"大冒険"を自立のきっかけに~(前編)
一般社団法人ZENは2018年、<障害者スポーツの振興及びスポーツなどを通じて障害者の心身の健全育成>を目的に設立された。代表理事を務める野島弘氏は1998年長野、2006年トリノパラリンピック2大会のチェアスキー日本代表だ。現在は日本チェアスキー協会理事、日本障害者ゴルフ協会の理事を務めている。野島氏にパラスポーツとの出合い、ZEN設立の想いについて訊いた。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長): 野島さんはパラリピック2大会に出場したスキーヤーでしたが、元々、スキー競技は32歳で始めるまで未経験だったそうですね。ご兄弟の勧めがきっかけだと伺いました。
野島弘: そうなんです。実は兄弟から、誘われていたものの、4年ほど断っていました。私は17歳の時、交通事故でのケガが原因で下半身麻痺となり、車椅子ユーザーになりました。スキーをするような雪国に行くと、人の手を借りなければ移動も何もできないと思っていました。人に頼んでばかりになってしまい、自分のタイミングで遊べないことが嫌で、「仕事が忙しい」を理由に断っていたんです。ところがある日、弟がチェアスキーを借り、我が家に送ってきた。大きな段ボールを見て"なんだこれは!?"と驚きましたが、"届いちゃったからには、しょうがない"と割り切り、近くの屋内スキー場で滑ったのが最初ですね。
伊藤: 雪国やスキー場に抱いていたイメージは変わりましたか?
野島: はい。実際に行ってみると、それほど大変さは感じませんでした。車椅子で動き回れましたし、スキーもとても楽しかった。今じゃ逆に兄も弟もスキーをやめてしまいました。現役は引退しましたが、スキーに関わっているのは私だけになりましたね。
二宮清純: 1962年生まれの野島さんが、車椅子ユーザーとなった1980年前後は、今ほど障がいのある人に対する理解も高くなかったのでは?
野島: そうですね。その大変さに気付いたのは退院してからでした。当時、バリアフリーなんて概念はほとんどなく、段差だらけで、人々の障がいのある人に対する理解も乏しかった。外出する際の不便さは、現在と比べものになりません。今はとても生活しやすい。駅にエレベーターがあれば、電車に乗って、様々な場所へ移動することができますからね。
二宮: そうしたハード面の充実は、東京パラリンピックを契機に変わった印象でしょうか?
野島: それは徐々に変わっていったと感じますね。大事なのはハード面だけではなく、ハード・ソフト両面です。例えばスロープをつくっても、動線上に自転車が置いてあれば意味がありません。最近はそういったことが少なくなり、理解も深まってきたように思います。
二宮: 野島さんは交通事故で車椅子ユーザーとなってからの人生を、「生まれ変わったと思っている」とおっしゃっています。
野島: はい。私の最大のライバルは、"交通事故に遭う前の野島弘"です。私は楽しむことが好きなので、どんな時も楽しみたい。"コイツ(過去の自分)より、今の自分は楽しんでいるぞ"ということを第一に考えています。私が悲しむと親が悲しむ。まわりから可哀そうな人とは思われたくない。楽しい人生を送れば、可哀そうではないと思うんです。"事故に遭う前よりも楽しんで生きよう"が私のポリシーなんです。
【人生を変えた出会い】
二宮: 非常にポジティブですね。
野島: "楽しい"と思う気持ちは、障がいの有無に左右されませんからね。
伊藤: 36歳の時、チェアスキーで1998年長野パラリンピック日本代表に選出されました。
野島: 長野では代表に入ったものの、本戦には出場できませんでした。実は公式練習の、国内外の選手やメディアが集まっているところで"こんな最高な場面はないな"と調子に乗ってしまった。ジャンプの着地に失敗し、首の骨を折ってしまったんです。そのままヘリコプターで病院まで運ばれ、目が覚めたら病院のベッドの上でした。結局、選手村には1日しか宿泊できず、その時に干したパンツはずっと部屋にあったそうです(笑)。
二宮: 4年後のソルトレイクシティパラリンピックの日本代表には選ばれなかったものの、8年後のトリノパラリンピックに出場しました。チェアスキーでソルトレイクシティパラリンピックから6大会連続出場中の森井大輝選手の存在が、後押しとなったそうですね。
野島: 彼の存在は、私にとって大きかった。私は1998年長野パラリンピックでケガをした後、リハビリを経て1年後に復帰しました。その復帰した日と森井選手がスキーを始めた日が同じ日、同じ場所だった。彼は1998年長野パラリンピックをテレビで観て、雑誌の記事で私のことを知って、"一緒にパラリンピックに出たい"と思ってくれたそうなんです。しかし、私はソルトレイクシティパラリンピックには出られなかった。一方、出場した彼は帰国後、すぐに「次のパラリンピックは一緒に出よう」と私に電話をくれました。
伊藤: そこから毎日電話があったそうですね。
野島: そうなんですよ。ソルトレイクシティパラリンピック出場を逃したばかりの頃は、パラリンピックを目指すことは諦めようと思っていましたが、徐々に「森井と一緒に出てみたい」という気持ちになっていった。それで4年間頑張って、44歳でトリノパラリンピックに出場することができました。そんな彼が今も現役で頑張っていることをうれしく思います。
二宮: 引退後は、競技の普及や育成に尽力しました。
野島: そうですね。引退前から日本チェアスキー協会の競技部部長として活動していましたが、2018年ソチパラリンピック、2022年北京パラリンピックの2大会で9個のメダルを獲得した村岡桃佳選手らに出会ったことが今の活動につながっていったきっかけです。2005年、彼女が小学生の時に私たちのところに遊びに来た。彼女のような子どもが大人のコミュニティの中に交じってスキーを楽しむこともいいのですが、子ども同士でも楽しめる"子どもの社会"をつくってあげたいと思ったんです。その社会での経験が、子どもたちの成長のきっかけにもなるだろう、と。だから彼女たちに出会わなければ、今のような普及や育成に重きを置いた活動はしていなかったかもしれませんね。
(後編につづく)
<野島弘(のじま・ひろし)>
一般社団法人ZEN代表理事。1962年6月27日、東京都出身。17歳の時の交通事故が原因で車いすユーザーとなる。32歳でスキーを始め、36歳で1998年の長野パラリンピックのチェアスキー日本代表に選出された。2002年ソルトレイクシティパラリンピックには出場できなかったものの、2006年トリノパラリンピックに出場した。現役引退後は、日本チェアスキー協会理事としてジュニア普及育成活動に尽力。また2018年には一般社団法人ZENを設立し、代表理事として障がいのある子どもたちが元気に楽しく、そして力強く生きられるように自立心を育む活動をしている。そのほか日本障害者ゴルフ協会理事を務めるなど、活躍の場は多岐に渡る。
(構成・杉浦泰介)