二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2023.06.29
後編 子どもたちに希望を
~共生社会につなげるトライ~(後編)
二宮清純: 岸野選手は早稲田大学、小林選手は近畿大学と、強豪ラグビー部に所属されていました。チームメイトとの連係面で苦労されたことは?
岸野楓: 私は練習や試合でチームメイトの言っていることが全く聞き取れず、わからなかったことに苦労しました。ですから練習や試合前にチームメイトとしっかりコミュニケーションを取り、意思疎通を図るようにしました。プレー中は常に周りを見て、状況を把握できるようにしてきました。
小林建太: 私が苦労したのもコミュニケーション、あとは試合中のサインの共有ですね。私も岸野選手と同じように、試合中、首を振ることで周り確認し、全体を把握するよう視野を広く取っていました。サインの共有は、自分が理解するまで相手に聞きました。それとチームメイトと会話する時には読唇術を行うため、なるべく近くで話しました。話し相手には口を大きく動かしてもらうようにお願いしました。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長): 大学卒業後にデフラグビーに転向した理由は?
小林: 大学で燃え尽きた感がありました。卒業後半年はラグビーから離れていたのですが、デフラグビー連盟(日本聴覚障がい者ラグビー連盟)の方から熱心に誘われました。その頃、大学の同期が卒業後もプロとして活躍しているのを観て、「ラグビーを続けているのが、うらやましいな」と思い、デフラグビーへの転向を決めました。
岸野: 大学ラグビーは最上級生の4年時に、チームが大学日本一になり、自分自身はやれる限りを尽くしました。今後はデフラグビーの活動を通じて聴覚障がい者の活躍を推進したいと考えたからです。
二宮: 具体的にどんな活動を?
岸野: 子どもたちに自分の可能性を信じて欲しい。デフラグビーの体験会を通して、そのことを伝えていきたいと思っています。
小林: 私も障がいのある子どもたちにとってスポーツが人生に希望を持つきっかけのひとつになってくれたらいいと思っています。デフラグビーをやってくれるのが理想ですが、その子の人生が豊かになるのなら、どんなスポーツでもいい。
二宮: 矢部さんがデフラグビーに関わるようになったきっかけは?
矢部均: 私は10歳からラグビーを始め、小中高、社会人までラグビーを続けていました。35歳ぐらいの時に「手話をやりたい」と思い、習い始めたんです。手話を覚えて1年ほど経った時、デフラグビーがラグビー雑誌に載っていて、自分の経験が結びつくと思って連絡したのがきっかけです。実際にデフラグビーの世界に入ってみたら、ラグビー経験者で手話のできる人が私以外いなかった。
【手話通訳の課題】
伊藤: 待望の人材だったんですね。そもそも「手話をやりたい」と思ったのはなぜでしょう?
矢部: 元々趣味でパントマイムをやっていたんです。手話とパントマイム。なんとなく通じるものがあった。もしかしたら神様のお告げのようなものかもしれませんね(笑)。
二宮: 出合うべくして出合ったわけですね。国によって言語が違うように、手話も国によって異なるとお聞きしました。
矢部: その通りです。さらに同じ国でも標準手話以外に方言もある。あだ名や丁寧語、フランクな言葉もあるんですよ。人によって手話も様々で個性があるんです。
二宮: 矢部さんが考える手話通訳の魅力は?
矢部: 私個人としては自分の強みを生かせるところに魅力を感じますね。手話通訳は単に言葉を変換し、表現するのではなく、理解しやすい言い回しや描写に変換して伝えています。外国語の通訳者が通訳内容について精通している人の方がより分かりやすい通訳が可能なように、手話通訳もその分野に詳しい人の方が伝わりやすい手話に変換することができるんです。私の場合はそれがラグビーなんです。
二宮: 選手側の意見はどうでしょう?
岸野: 日本でラグビーに詳しい手話通訳の方は矢部さん以外にいません。聞こえる人とのコミュニケーションで口話のみで読み取るのは限界がありますし、気も使い、通常より疲れる。その意味で手話通訳の存在は大変助かっています。簡単な手話でもいいので、積極的に手話を使ってくださる方が増えていくとうれしいです。
二宮: 手話通訳者の数も増やしていかなければいけないでしょうね。
矢部: おっしゃる通りです。手話通訳を長時間継続的に行うと頸肩腕障害になるリスクが高まるため、通常は複数人で交代して行います。しかし現状は代わりがおらず、1人で担わざるを得ない。ラグビーに詳しい手話通訳者が少ない理由は、まず手話を通訳者レベルで学ぼうという人自体が少ないことです。その中でラグビー経験が豊富な人材となるとさらに希少になる。人材発掘のため、ラグビーサイド、手話サイドに働きかけをしているところですが、まだ思うようには進んでいないのが実状です。
伊藤: 日本聴覚障がい者ラグビーフットボール連盟は、<聴覚に障がいを持つ人(デフ)たちがラグビーを通して、聞こえないことへの理解を社会に広める>ことを目的に体験会などを実施されていますね。今後その理解を深めていくために必要なこと、取り組んでいきたいことはありますか?
矢部: よくデフ体験と言うと「耳栓をしてみましょう」というイベントがあるのですが、それだけでは多少音を拾えてしまうため、コミュニケーションが取れない苦しさや疎外感を体験できません。そこでいろいろな研究と工夫を重ね、耳栓よりも周囲の音が聞こえなくなるイヤホンを開発しました。実際にイヤホンを装着した方々からは「全然聞こえない」と驚いてもらえるようになりました。このイヤホンを使った体験会を、もっと企画していけたら理解も深まるのではないかと考えています。
岸野: 私は障がいに関係なくすべての人々が多様性を知り、お互いを受け入れ合えることが大事だと考えています。自分自身これまで知らなかったことに初めて触れた時に新しい考え方を知り、価値観が広がる経験を多くしてきました。同じような経験を障がいの有無に関係なく多くの人にしてほしい。だから私たちは、デフラグビー体験会を聴覚障がいのある子どもたちだけでなく、聞こえる人たち向けにも積極的に開催していきたいと思っています。また、デフラグビーだけでなく車いすラグビーなどとの交流も今まで以上に広げていくために継続的にコンタクトを取り、行動していきたいです。
(おわり)
<岸野楓(きしの・かえで)>
富士通株式会社所属。1998年5月5日、岐阜県生まれ。8歳でラグビーを始める。ポジションはフランカー。高校は岐阜聾学校に通い、岐阜合同チームの一員として県大会、東海大会などに出場。高校2年時からU-18合同チーム東西対抗戦に2年連続出場。高校卒業後、早稲田大学ラグビー蹴球部では公式戦の出場こそなかったものの、最終学年時に大学日本一を経験した。東京学芸大学大学院を経て、富士通に入社。デフラグビー日本代表として7人制デフラグビー世界大会に第1回から2大会連続出場中。今年4月の第2回大会では主将を務めた。
<小林建太(こばやし・けんた)>
キヤノンマーケティングジャパン株式会社所属。2000年3月22日、大阪府出身。幼稚園年中からラグビーを始める。ポジションはセンター。近畿大学付属校ラグビー部に所属し、レギュラーとして活躍した。近畿大学進学後も3年時にはAチーム入り。キヤノンマーケティングジャパン入社後、デフラグビーを始め、ポジションはスクラムハーフに転向した。日本代表としては、今年4月、第2回7人制デフラグビー世界大会に初出場した。
<矢部均(やべ・ひとし)>
NPO法人日本聴覚障がい者ラグビーフットボール連盟理事。1963年3月18日、埼玉県出身。10歳でラグビーを始める。ポジションは主にスクラムハーフ。大東文化大学第一高校では全国高校ラグビー大会に出場した。2002年第1回デフラグビー世界大会にデフラグビー日本代表コーチとして参加。2011年、デフラグビー・オーストラリア代表が来日した際、対戦した日本選抜の監督を務めた。「日本聴覚障害者ラグビーを考える会」の設立(1995年9月)当初より携わり、1998年4月の「日本聴覚障害者ラグビークラブ」(JDRC)設立にあたり、唯一の聴者スタッフとなり、各委員会の委員長を歴任。JDRCが2016年3月に法人格を取得し、NPO法人日本聴覚障がい者ラグビーフットボール連盟に改名後は理事として組織の運営に携わっている。約25年前に手話を習得し、取材やイベントなどで手話通訳も務める。
NPO法人日本聴覚障がい者ラグビーフットボール連盟HP
(構成・杉浦泰介)