二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2024.08.15
前編 義足レスラーの挑戦
~"障がいと共に戦う"不屈のレスラー~(前編)
障がい者レスリングの普及に尽力する義足のレスラーがいる。プロレスラー谷津嘉章氏だ。1976年モントリオール五輪で8位入賞。1980年モスクワ五輪は日本がボイコットしたため"幻の金メダリスト"と呼ばれた。その後プロレスラーとして活躍した谷津氏だが、2019年に右足を失い、2023年、NPO法人日本障がい者レスリング連盟を立ち上げた。団体設立の経緯と障がい者レスリング普及への想いを訊いた。
二宮清純: お久しぶりです。新日本プロレス、全日本プロレスなどで活躍されていた頃に会場で取材させていただきました。
谷津嘉章: 私もテレビで拝見しております。本日はよろしくお願いいたします。
二宮: 2019年に膝から下を切断する手術されました。切断の理由は糖尿病の悪化によるものだとうかがいました。
谷津: はい。ランニングをしていて、靴擦れの血豆が化膿していった。糖尿病による免疫力低下が原因です。ドクターが言うには糖尿病は不治の病。壊疽が左足や手に及ぶかもしれない。だから足を切断したからといって一件落着とはならない。切断してから4年以内に75%が再発すると言われています。
伊藤数子(「挑戦者たち」編集長): 手術から5年が経ちましたね。
谷津: ただ5年が過ぎたといっても、再発の確率が下がるだけで寛解したわけではない。今は暴飲暴食をせず、日々、血糖値やヘモグロビン値を測り、体調をコントロールしています。
伊藤: 医師から「右ひざ下を切断しなければならない」と言われた時、すぐに決断できましたか?
谷津: それはもうショックでしたよ。診断を受けた医師からは「明日手術でもいいんですよ」と言われました。「考えれば考えるほど時間が経ち、壊疽は進行しますから、早く決断してださい」と。とはいえ、60年以上も付き合ってきた足が急になくなると知らされるわけですよ。簡単には受け入れられません。手術を決断した後も、当日までなかなか眠れなかった。10分に1回のペースでため息をついていました。"これから先、どうしよう"って......。
二宮: 萎えた気持ちを、どう奮い立たせたのでしょうか?
谷津: その頃、JOCの会長になったばかりの山下泰裕さんから"幻のモスクワ五輪日本代表"を聖火ランナーに起用する構想があるということを聞きました。その時に"これだ!"と閃いたんです。元々、やると決めたらじっとしていられないタイプ。それで聖火ランナーにチャレンジしようと応募しました。
【原点はレスリング】
二宮: 書類の提出とかあるんですか?
谷津: あんなにものを書いたのは大学の卒論以来ですよ。ハハハ。私は足利工業大学附属高校出身で、大学卒業後の数年を足利工業大学の職員として勤めていたこともあり、栃木県に応募しました。「栃木だったら人口が少ないから、東京よりはライバルが多くないだろう」と軽い気持ちで決めたんです。これが功を奏し、無事に栃木で聖火ランナーをやることが決まった。ところがコロナ禍で1年延期になった。ただ、そのおかげで聖火ラン当日までトレーニングをすることができた。体力が戻ってくると同時に、プロレスへの意欲がふつふつと湧いてきたんです。
二宮: 義足でプロレスとは......。
谷津: 実は2019年夏、入院中にプロレス団体「DDT」の高木三四郎社長から、「義足レスラーとしてリングに上がらないか」というオファーを受けました。その時は話半分にとらえていましたが、翌年に高木社長から技師メーカー「川村義肢株式会社」を紹介してもらった。そこからとんとん拍子に話が進み、川村さんが1年かけてプロレス用の義足をつくってくれた。今もそれを使っていますが、まさか入院していた頃は、自分が義足でプロレスをするとは思ってもみませんでした。
伊藤: 谷津さんはレスリングの大会では、義足を外していました。だけどプロレスでは、義足も"凶器"として使っていましたよね(笑)。
谷津: それは自分がエンターテイナーだから。義足を使っていろいろなギミック(仕掛け)ができるんです。一度義足から煙が出てくる仕掛けを頼んだこともありました。それは「谷津さんのキャラじゃないでしょう」ということで、立ち消えになりましたが......。
二宮: 現役復帰を果たし、2023年にはNPO法人日本障がい者連盟を立ち上げました。
谷津: 義足レスラーとしてプロレスで"再デビュー"することができた。それからもっと欲が湧いてきたんです。オレの原点はレスリング。義足で行うレスリングがあるかどうか調べました。ところが、世界中どこにも見つからなかった。国際レスリング連盟の副会長を務めた福田富昭さんにも聞いたけど、「ない」と言う。レスリングは打撃がないので、障がいがあってもケガのリスクは低い。にもかかわらず、パラの競技はない。だったら自分でつくればいい、と考えを改め、自分で団体をつくりました。ただし、大会を開くにあたってのカテゴリー分けや、ルールづくりはこれから。文字通りイチからのスタートです。
(後編につづく)
<谷津嘉章(やつ・よしあき)プロフィール>
NPO法人日本障がい者レスリング連盟統括。1956年7月19日、群馬県出身。日本大学在学中の1976年、モントリオール五輪に出場し、男子フリースタイル90キロ級で8位入賞。1980年モスクワ五輪は日本のボイコットで出場ならず。同年、新日本プロレスに入団し、プロレスデビューを果たした。全日本プロレスではジャンボ鶴田とのオリンピアンコンビで世界タッグ王座を獲得。2010年、現役引退。2019年6月に糖尿病のため右足を切断する手術を受けた。2021年6月に義足レスラーとして復帰を果たす。2023年にNPO法人障がい者レスリング連盟を設立し、障がい者レスリングの普及に尽力している。
NPO法人日本障がい者レスリング連盟
(構成・杉浦泰介)